東京オリンピックと戦時下日本の共通性

 文春オンライン2018/07/31の辻田真佐憲氏の記事「「暑さはチャンス」なぜ東京オリンピックは「太平洋戦争化」してしまうのか?」より。

 猛暑の日本列島で、東京オリンピックはいよいよ「太平洋戦争化」しつつある。五輪組織委員会森喜朗会長は、インタビューにこう答えている。
 「この暑さでやれるという確信を得ないといけない。ある意味、五輪関係者にとってはチャンスで、本当に大丈夫か、どう暑さに打ち勝つか、何の問題もなくやれたかを試すには、こんな機会はない」(2018年7月24日、『日刊スポーツ』)
 これは、典型的な「ピンチはチャンス」論法だ。戦時下日本の指導者たちも、敗色が濃くなるほど、同じように「好機だ」「絶好の機会だ」「神機到来だ」との空手形を切り続けた。

「ピンチはチャンス」論法 1944年、東条英機の場合

 たとえば、東条英機は1944年7月のサイパン島陥落後にこう述べている。
 「正に、帝国は、曠古の(前例のない)重大局面に立つに至つたのである。しかして、今こそ、敵を撃滅して、勝を決するの絶好の機会である」
 そこまでいうならば、なにか特別な秘策があるのかと思ってしまう。だが、続く箇所を読むと、それが空虚な精神論にすぎないことがわかる。
 「この秋(とき)に方(あた)り皇国護持のため、我々の進むべき途は唯一つである。心中一片の妄想なく、眼中一介の死生なく、幾多の戦友並びに同胞の鮮血によつて得たる戦訓を活かし、全力を挙げて、速かに敵を撃摧し、勝利を獲得するばかりである」(『週報』1944年7月19日号)
 同じような例は枚挙にいとまがない。いわく、本土に戦線が近づいたので有利。いわく、空襲で日本人の覚悟が固まったので有利――。その悲劇的な帰結は、今日われわれがよく知っているところだ。
 この経験があったからこそ、非科学的な精神論はこの国で深く戒められてきたはずだった。それなのに一部のテレビでは、猛暑は日本人選手にとって有利だなどと喧伝されているのだから始末に負えない。

小池百合子の「打ち水」はまるで竹槍精神

 小池百合子都知事は、ついに「総力戦」で暑さ対策に臨むと宣言した。
 「木陰を作る様々な工夫、打ち水、これが意外と効果があるねと、一言でいえば総力戦ということになろうかと思う」(2018年7月23日、テレビ朝日
 しかるに、聞こえてくるのが、木陰、打ち水、よしず、浴衣、かち割り氷などでは、なんとも心もとない。これではまるで「竹槍3万本あれば、英米恐るるに足らず」の竹槍精神ではないか。
 毎日新聞の新名丈夫記者は、1944年2月に「竹槍では間に合はぬ」「飛行機だ、海洋航空機だ」と書いて東条英機を激怒させた。それに倣って、「打ち水では間に合わぬ」「冷房だ、エアコン設置だ」ともいいたくなる。

安倍晋三の「冷暖房はなくても……」とボランティア動員

 もちろん、道路の遮熱性舗装や街頭のミストの設置などの対策も講じられてはいる。だが、もともと「我慢が大事」などの精神論が幅をきかし、小学校のエアコン設置さえ滞っていた国である。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、秋にもなれば、予算節約の大義名分のもと、精神論が復活するのではないか。
「冷暖房はなくてもいいんじゃないか…」(2015年8月28日、『産経新聞』)
 そういって、新国立競技場のエアコン設置を見送ったのは、ほかならぬ安倍晋三首相だった。
 その一方で、ボランティアの動員などは着々と進められている。企業も大学も、予算や優遇措置などで徐々に切り崩されていくだろう。マスコミだって、「努力と涙と感動」式の肯定的な報道で耳目を集めたいという誘惑にどこまで抵抗できるのか甚だ疑わしい。
 このままなし崩し的に東京五輪に突き進みそうだからこそ、太平洋戦争の刺激的な教訓が参照されなければならない。

「文句をいっても仕方がない」という「過剰適応」

 戦時下の軍人や官僚たちも、決して狂っていたわけではない。にもかかわらず、空虚な精神論が蔓延ったのは、不可能な状況に無理やり適応しようとしたからだ。
 国力も足りない。物資も足りない。明らかに米英のほうが強い。必敗なのに、必勝といわなければならない。ではどうするか。精神力だ。ピンチはチャンスだ。われらに秘策あり。こう叫ぶしかない。狂気はある意味で、合理的な帰結だったのである。
 それゆえ、東京五輪に関するおかしな状況には異議を唱え続けなければならない。そこに過剰適応して、「もう開催するのだから、文句をいっても仕方がない」「一人ひとりがボランティアなどで協力しよう」などといってしまえば、問題点が曖昧になり、関係者の責任も利権も問われなくなってしまう。
 たとえば、つぎのように――。
「敵は本土に迫り来つた。敵を前にしてお互があれは誰の責任だ、これは誰の責任だと言つてゐては何もならぬ。皆が責任をもつことだ。(中略)今や『我々一億は悉く血を分けた兄弟である』との自覚を喚び起し、困難が加はれば加はるほど一層親しみ睦び、助け合ひ、鉄石の団結をなして仇敵にぶつつかり、これを打ち砕くの覚悟を固めねばならぬ」(『週報』1944年7月19日号)

精神論とその犠牲の繰り返しは御免こうむりたい

 疲弊した現代の日本で、しかもよりにもよって猛暑の時期に、やらなくてもよい五輪を、なぜ開催しなければならないのか。それをねじ込んだのは誰なのか。今後本当に効果的な猛暑対策は取られるのか。
 現在と戦時下では多々差異があるとはいえ、精神論とその犠牲の繰り返しは御免こうむりたいものだ。だからこそ、これから「感動」「応援」の同調圧力が高まるなかでも、こうした問いは絶えず発し続けなければならないのである。

 歴史小説家・杉本苑子が、19歳の時に神宮外苑競技場で見送った学徒出陣の壮行会と、1964年の東京オリンピック開会式とを重ね合わせた文章が、昨年の『東京新聞』(2017/8/14)で引用されている。

 二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。オリンピック開会式の進行とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押さえることができなかった。
 音楽は、あの日もあった。軍楽隊の吹奏で「君が代」が奏せられ、「海ゆかば」「国の鎮め」のメロディーが、外苑の森を煙らして流れた。しかし、色彩はまったく無かった。私たちは泣きながら征く人々の行進に添って走った。髪もからだもぬれていたが、寒さは感じなかった。おさない、純な感動に燃えきっていたのである。
 オリンピック開会式の興奮に埋まりながら、二十年という歳月が果たした役割の重さ、ふしぎさを私は考えた。同じ若人の祭典、同じ君が代、同じ日の丸でいながら、何という意味の違いであろうか。
 きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれが恐ろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ。
 もう戦争のことなど忘れたい。過ぎ去った悪夢に、いつまでもしがみつくのは愚かしいという気持ちはだれにもある。そのくせだれもがじつは不安なのだ。平和の恒久を信じきれない思いは、だれの胸底にもひそんでいる。東京オリンピックが、その不安の反動として、史上最大のはなやかさを誇っているとすれば問題である。二十年後のために−永久にとはいわない。せめてまためぐってくる二十年後のために、きょうのこのオリンピックの意義が、神宮競技場の土にたくましく根をおろしてくれることを心から願わずにはいられない。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201708/CK2017081402000210.html