サイード「ヴィーコ」

第6章「ヴィーコ――身体とテクストの鍛練=学問(ディシプリン)に関して」1976

○『新しい学』におけるヴィーコの洞察

人間の現実を論じるにあたっては、たんなる論理的意味の外部に、何か向き合って取り組むべきものがつねに存在するという洞察。この何ものかこそ、身体であり(p.111 強調引用者 以下同)

わたしたちは、文学テクストが空間的広がりや状況やさらには性までもが存在しないような領域に宿っていると考えに慣れすぎている。その領域においては、作者の主権を除くと、外界に属するあらゆる証拠や証言が捨象され、うがった解釈やシステム構築の奇抜さに、眼がくらんでばかりなのだ。テクストに取り組むヴィーコのやり方とは、第一に、テクストを、その発生源である人間の闘争へと送り返すものだった。(中略)ヴィーコテクスト発生の起源である粗野な身体的・物質的状況を読者に見せる(p.112)

『新しい学』がそこかしこで読者に思い起こさせるのは、学者というものは、自分自身のそれも含めた人間活動のまぎれもなく身体的な証拠を、隠すか、見落とすか、または誤って取り扱うという事実である。(p.113)

彼が理論やシステムに見ていたのは、身体的なディテールをわがものとすることができる能力(または、無能力)であって、言いかえれば、そのようなディテールが理論やシステムを照らしだすか(たとえば、ヴィーコ自身が真のホメロスやダンテを理論化し、それら血の通わない空論に身体的ディテールを付加するときのように)、逆に照らしだすことがないかである。(p.113)

ヴィーコにとっては、以下の二つのことは、まったく別々の事柄なのである。――すなわち、内省的な心的虚構としての理論やシステムが、たがいに矛盾しあう感覚印象を取り入れたり、ときには活性化することと、理論が硬直化して、制度的に頑迷固陋なものとなることとは。もちろんこの後者の事態は、何としてでも回避され修正されなければならないわけだ。(中略)たとえ、観念が、かたくなな執着物になりがちであるということが事実だとしても、それらの観念が、かつては、身体的存在への反応から生じた情念に満ちた想像力の産物であったということも、それに劣らず事実なのである。(中略)正典的テクストも、歴史的かつ動的なプロセスであるかのように作り変えることができるのである。(p.113-114)

○感覚(身体)から知性(記号)へ

*知性の働き
・感覚経験のなかから感覚印象以上のなにものかを取り出す作業
・それを取り出し保存することは、必然的に、それに異なった形式を与えることを意味する。(p.118)

*記号の創造=感覚印象の変容
ある記号を制作することや、記号が自分に向けて発せられたと信ずるなかで、人間は生々しい感覚印象の交換以上の何ものかに巻きこまれてしまうのである。(p.119)

*記号による制度化=ディシプリン
  文化史家にとって重要なのは、ランダムな現象ではなく、息の長い出来事、それも人間の社会において、歴史的かつ物質的で、回復可能な永続的存在を有するような出来事なのである。大きな嵐は、太古の人間の心にゼウスの合図を呼び起こすが、しかし、ここでさらに重要なのは、その嵐が、記号が記憶を保存し、記号が、通常の騒音や閃光よりもはるかに生産的に存続する、そういう手立てを生み出したことである。

文化的記録という世界にとってこの定式の天才的なところは、それが次のようなふたつのことをおこなう点にある。
第一点、その定式は、記号と感覚印象を隣接するものとはするが、決して「自然に」相互還元されるようにはしない、ということ。
第二点、その定式は、記号の保存を、(a)記号が感覚の直接性から隔離されること(否定的側面)、ならびに(b)記号が残ること、もしくは、学問化され永続化する独自の様式を確立すること(肯定的側面)、このふたつに対等なかたちで関連づけたことである。
こうしたことは自然に起こるものではなく、感覚が、直面するすべての事象をコントロールてきなくなったときに起こるものである。(p.120)
  ↓
「それによってテクストが自己を維持し、それのためにテクストがある役割を担うような、世俗的諸制度」(p.121)の発生

記号とは、たんなる存在ではなく、諸関係の、創造しまた創造されるネットワークである(p.121)

  記号は、単独で意味を担うのではなく、その記号を流通させる意味のネットワークが存在する場でのみ、記号としての役割を果たすということか?
  「太古の人間がゼウスを生み出したあとでは、もはや、彼ら自身もゼウスも、単純に存在するわけではない(中略)ゼウスと太古の人間とは、たがいを拘束しあっているのだ」(p.121)。雷鳴を「ゼウス」という記号で表した瞬間から、雷鳴は、音や閃光から成る単なる自然現象ではなくなってしまう。示差的な特徴を帯びた存在として、人々の心に銘記されるようになる。具体的には、「神意」という意味合いを帯びたものとして。言いかえれば、「ゼウス」という記号が流通する人々の間では、ゼウスの神意への信仰が共有されていることになる。だから「ゼウスを創造することによって、太古の人々は、彼ら自身をゼウスの王国のなかに折り込んでいる」(p.120)と表現しているのだろう。
  そして「このようにたがいを制限しあうネットワークは、べつに宗教のみに特有なものではなく(中略)文化および市民社会にも適用されるもので、そのネットワークは、ある種の持続的な鍛練=学問をともなうものなのである」(p.120)。
  例えばテクストと読者の関係がそれに当たる。

テクストは、文化内存在であり、読者もまたしかりである。テクストも読者も、勝手気ままに意味を生産できるような「自由」な存在ではない。というのも、すでに見てきたように、あらゆる記号の集合の場合を同じく、テクストが存在する以上はいつでもどこでも存在する規定的ネットワークに、両者とも属するものだからである。(p.121)

ネットワークの全体は――ちょうどテクストが、たんなる読者のみならず、故意にその意味をねじ曲げて解釈しようとする者も、抱え込んでいるように――さらに大きなネットワークに内属している。(中略)この大きなネットワークとは、物質的で歴史的な人間社会なのだ。(p.121-122)

  私たち読者は、素手の状態で、直接テクストに向き合うのではない。話題作だとか古典的名作だとかといった前評判を事前に知った上で読んだり、手に入りやすい文庫本か、古書や図書館でなければ読めない(大江健三郎「政治少年死す」のように)ものであるかといった流布形態の違いに左右されたりとか、様々な文脈の中で、そのテクストと出会う。あるテクストについて考える場合には、テクストと読者の他に、そういった第三項としての“場”も検討しなければならない。サイードがいう「ネットワーク」は、そのような“場”の意味だろう。
  ここでの「ネットワーク」は、後の『オリエンタリズム』で述べられた、オリエンタリスト達の著述が再生産される機構の分析にもつながるようだ。

テクストの鍛練=学問とは、そのテクストのそもそもの起源である直接性を永続性へと翻訳変換し、文化の内部で文化の手によって伝播させることである(p.121)

  「身体」を強調したヴィーコの文化史観にサイードが共鳴するのは、それが固定化したテクストに流動性を持ち込むからだろう。あるテクストを読む際に、「テクスト発生の起源である粗野な身体的・物質的状況」を考慮しながら読むこと。そこにヴィーコ評価の眼目があるように思われる。