ポストコロニアリズム

姜琪東『身世打鈴』

身世打鈴(シンセタリョン) 作者:姜 〓東 石風社 Amazon 読了日2019/10/20。 1997年初版・発行所石風社。作者の姜琪東(カン・キドン)は1937年高知生まれ、97年より福岡在住。「あとがき」に「俳句という表現形式による一人の在日韓国人の自叙伝」であり「パ…

中島敦「巡査の居る風景」:意識されない支配の中で

辺見庸がブログで中島敦に触れていた。既に該当記事は消去されているようだが、中島が一高生時代に書いた習作「巡査の居る風景 ―一九二三年の一つのスケツチ―」についてだ。 ◎「巡査の居る風景」のことなど 「巡査の居る風景」よむ。またおどろく。たじろぐ…

敗戦の日に:ホミ・バーバ「ナラティヴの権利」

「世界市民」「コスモポリタン」という言葉は、ともすればどこにも地に足のついていない空理空論の立場として揶揄的に扱われることがあるのだが、バーバは地域性・特殊性を切り捨てることなく、しかも同時に市民・人権といった概念が切り開いた普遍的・共訳…

久保田義夫「魂の中の死」―植民地社会の縮図

久保田義夫の作品集『魂の中の死』(1972)を読んだ。年末の古書セールで買ったものだ。奥付の著者略歴によれば1917年宮崎県生まれ、41年京城帝国大学法学部卒業後、47年ラバウルより帰還。59年に歴史小説集『黄色い蝶の降る日に』を刊行、『詩と真実』『九…

漱石の新資料「韓満所感」

夏目漱石がハルピンで暗殺された伊藤博文について触れた文章を、『満洲日日新聞』1909(明治42)年11月5、6日に発表していたことが分かった。「満韓ところどころ」に描かれた満洲・韓国旅行は同年9〜10月であり、伊藤暗殺は10月26日。漱石の文章には「東…

サイード「故国喪失についての省察」

このエッセイは、次のように書き出される。 故国喪失は、それについて考えると奇妙な魅力にとらわれるが、経験するとなると最悪である。人間とその人間が生まれ育った場所とのあいだに、自己とその真の故郷とのあいだに、むりやり設けられた癒しがたい亀裂。…

サイード『故国喪失についての省察1』11〜14章

以下を読了。とりあえず覚書。 ・第11章「批評の未来」1984 批評行為そのものについての論評。「移動する理論」とも関係深い。 ・第12章「故国喪失についての省察」1984 冒頭にあるように、20世紀は他に類例を見ない「大移住時代」であり、それは文学も含ん…

サイード『故国喪失についての省察1』7〜10章

以下を読了。第10章以外は書評の形で、いずれも対象への辛辣なコメントがなされている。これまでの章と異なり、アメリカを中心とした西洋マスメディアへの批判というアクチュアルな問題意識が表明されている。 ・第7章「どん底への観光旅行――ジョージ・オー…

サイード「ヴィーコ」

第6章「ヴィーコ――身体とテクストの鍛練=学問(ディシプリン)に関して」1976○『新しい学』におけるヴィーコの洞察 人間の現実を論じるにあたっては、たんなる論理的意味の外部に、何か向き合って取り組むべきものがつねに存在するという洞察。この何もの…

サイード『故国喪失についての省察1』2〜6章

以下の各章を読む。個別の作家論的な内容だ。 ・第2章「未解決のアマチュア」シオラン論 ・第3章「終わりなき内戦」T・E・ロレンス論 ・第4章「偶然性と決定論のはざまで」ルカーチ論 ・第5章「コンラッドとニーチェ」 ・第6章「ヴィーコ」 長くなる…

サイード「受肉の迷宮――モーリス・メルロ=ポンティ」

メルロ=ポンティ論。「序」では「メルロ=ポンティにわたしが感銘を受けたのは、絶対原理なき現実、絶えず経験される一瞬一瞬の統合としての言語、物質の世界に一度かぎり具現化される精神、それらが織りなす困難な状況――この状況のなかで、わたしたちは、…

サイード「批評と故国喪失」

故国喪失についての省察〈1〉作者: エドワード・W.サイード,Edward W. Said,大橋洋一,和田唯,近藤弘幸,三原芳秋出版社/メーカー: みすず書房発売日: 2006/04/07メディア: 単行本 クリック: 3回この商品を含むブログ (11件) を見る序「批評と故国喪失」より …