敗戦の日に:ホミ・バーバ「ナラティヴの権利」

 「世界市民」「コスモポリタン」という言葉は、ともすればどこにも地に足のついていない空理空論の立場として揶揄的に扱われることがあるのだが、バーバは地域性・特殊性を切り捨てることなく、しかも同時に市民・人権といった概念が切り開いた普遍的・共訳的地平に繋がり続ける立場、逆にそこから自己を捉え直す立場を強調する。

今日、わたしたちに求められていることは市民権という概念をとおして、ネイション、共同体、集団、マジョリティあるいはマイノリティといった、多として構成された集合体にたいする責任を政治や文化の問題として、より広い視点から考えることである。「特異なもの」と集合的なもの、私的なものと公的なもの、記憶と歴史、芸術家と共同体、そのあいだにわたしたちは橋を架けなければならない。なぜならば、そのような橋の存在が、自分の国民文化をさまざまな国際的利益が交換される場へと道を開くからである。

 あらたなコスモポリタンという立場からみれば、ネイションの利益のために行動することは、文化や歴史の「翻訳」をおこなうことへと、自分のなれ親しんだネイションの物語を再検討し修正していく可能性へと開かれたものでなければならない。自国民や祖国に関する物語は、同国人ではないが同じ「世界」に属する市民という立場から語りなおされる必要がある。

 この「世界」とは、ハンナ・アレントが『人間の条件』で述べた〈活動〉の舞台であり、「物語」が共有される人間関係の網の目のことである。このような「世界」の中で、語り出したり他者の語りに耳を傾けることが認められることを、バーバは「ナラティヴの権利」と呼ぶ。
 この場の中で、自分の経験を語り直したり、他者のレスポンスを受けることで、私達は自己について新しい知見を得ることができる。

わたしたちは突如として自分の個性や視界の感覚が開かれているのを感じる。その過程のなかで、現実の街の具体的な時間といった、個々の社会・政治的状況の生活に意味を付与しているものが何なのか、自分の経験した歴史的瞬間や自分自身について、なにか根本的な洞察をえることができるのである。

 逆に、自分の生きて来た履歴や痕跡が、ただ訳の分からない混沌の塊として客観化されなかったとしたら、それを抱え込んだまま日々の労苦にただ向かうだけだとしたら、それは苦しいことだ。その苦しいという感覚さえ忘れてしまったとしたら、恐ろしいことだ。

市民としての生活のしるし、それがナラティヴなのである。その権利が顧みられない社会とは、言葉が聴こえない沈黙の社会である。それは権威主義の社会であり、警察国家であり、外国人恐怖症に罹った国である。ナラティヴの権利が守られなければ、巨大スピーカーから流される怒鳴り声、サイレンや拡声器の音によって、この沈黙が埋められてしまう危険が生じてくる。その音が人びとの姿を個性をうしなった大衆へと変えていってしまうのだ

ナラティヴの権利――戸惑いの生へ向けて

ナラティヴの権利――戸惑いの生へ向けて