豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』

 読了日2023/09/03。昭和天皇マッカーサーの会談をめぐっては、『マッカーサー回想記』(1964)に記された有名な“美談”がある(以下は豊下著による)。つまり、天皇は自分の免罪を懇請するどころか、国民の行った戦争責任の全てを自分が取ると自ら言い出し、マッカーサーを感動させたというのである。

 歴史学者の筆者は、この場面が「虚実ないまぜ」で到底史実と見なし得ないと指摘し、では実際にこの会談の真意はどこにあったのかを、限られた史料から明らかにしようとしたものである。

敗戦から米軍による占領という、文字通り国家の最大の危機に直面した昭和天皇は(中略)占領協力に徹することによって、戦犯としての訴追を免れ、皇室を守り抜くことに成功したのであった。戦後直後の危機を切り抜けた昭和天皇にとって、次に直面した最大の危機は、天皇制の打倒を掲げる内外の共産主義の脅威であった。この脅威に対処するために昭和天皇が踏み切った道は、「外国軍」によって天皇制を防衛するという安全保障の枠組みを構築することであった。(p.209)

敗戦直後からの戦犯訴追の危機を、「すべての責任を東条にしょっかぶせるがよい」という基本路線にたって“日米合作”で東京裁判を切り抜け、その後の共産主義の脅威に対しては、沖縄の米軍支配と安保条約による日本の防衛という体制を築きあげるために、昭和天皇は全力を傾注したのである。こうした天皇にとっては、東京裁判と安保体制は、「三種の神器」に象徴される天皇制を防御するという歴史的な使命を果たすうえで、不可分離の関係にたつものであった。(p226-7)

 本国との関係において微妙な立場にあったマッカーサーと、上記引用にまとめられたような昭和天皇の利害が一致し、件の“美談”も含めた協力体制が作られていった。筆者はその経緯を、資料が未公開のため不明な点については推測も交えつつ、全体としては手堅い論証でまとめていく。何度も資料の公共性と公開を訴えているのは、やはり近代史ならではの様々なタブーに直面したからだろう。

 それにしても興味深いのは、敗戦に際しても退位を拒んだという“政治的人間”としての昭和天皇の肖像だ。私達は権力者をともすれば情緒的・人情論的に捉えがちだが、権力者はその立場を得た途端、権力維持に固執するだけの別の生き物になる。弟・高松宮に「自分の地位がおびやかされるんではないか」と不安を抱き(p234)、革新勢力の台頭や国際的な共産主義の潮流を「内乱への恐怖」と結びつけるなど(p219)、猜疑心に囚われた姿が見えてくる。堀田善衛方丈記私記』が支配階級の特徴とした「国民というものの無視、あるいは敵視」も連想した。

 また本書で引用されるジョン・ガンサー『マッカーサーの謎』(1951)の「もし私が戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民は私をきっと精神病院かなにかに入れて、戦争が終わるまでそこに押しこめておいたにちがいない。また国民が私を愛していなかったならば、かれらは簡単に私の首をちょんぎったでしょう」という天皇の言葉は、元を辿れば免責のためのプロパガンダに端を発するものらしいが(p.19-20)、権力により「精神病」が都合よく用いられるというテーマは、井上章一『狂気と王権』とも繋がっていく。