伊勢崎賢治『本当の戦争の話をしよう』

  筆者は建築家を目指して早稲田大学建築学科に進んだが、スラム街の建物に心惹かれてインドへ留学したことがきっかけでソーシャルワークの道に入り、NGOでスラム住民の居住権獲得運動を組織した。その後、内戦の激化したアフリカのシエラレオネ武装解除や、インドネシアから独立した東ティモール県知事などの任務を果たした。また日本政府の依頼で、アメリカ軍がタリバン政権を打倒した後のアフガニスタンに入り、国家再建の仕事に携わった。現在は東京外国語大学で教鞭を執りながら、紛争地の学生同士をつなぐ仕組みを作ろうとしている。
  本書は、戦火の絶え間ない現場に赴き、「対立を仕切る(managing conflicts)」仕事に携わってきた筆者が、自身の経験を題材に、高校生との対話を通して、「戦争」の捉え方を論じたものである。
  本書を一読して感じたのは、筆者は理念だけの人ではないということだった。筆者の「紛争屋」としての活動は、単純な政治思想だけに基づくものでなく、根底には人間の生の様式(=文化)に対する深い関心があるのではないか、と思った。それは上記の経歴から窺われるし、筆者自身も「焦土と化した町で瓦礫しかない」場所に「しばらくすると、昆虫がワサワサと巣をつくるように復興が始まる」「無政府状態でも、無秩序な造形が始まる」点に「魅せられているのかもしれない」と語っている。
  従って、筆者は「正義」という理念を一方的に振りかざすことに批判的だ。筆者の挙げた体験談では、「悪」を排除するという「正義」の遂行が、別の「悪」を生み出してしまう、という一筋縄でいかないメカニズムが指摘されている。例えばアフガニスタンでは、軍閥の暴虐に対する抵抗組織だったタリバンが、軍閥を破り「平和」をもたらしたが、行き過ぎた純化運動が欧米の人権団体の目に止まり、国際社会からの孤立を招く。そしてアメリカの攻撃により、タリバン政権が崩壊した後、先に追放された軍閥達により暫定政権が作られたものの、元の内戦状態に戻る。筆者はそこで武装解除に当たるが、その結果抑止力が弱まり、今度はタリバンの復興を許してしまう。
  ここでは何が「正義」で何が「悪」かを一義的に定めることができず、両者は目まぐるしく変わる。またシエラレオネの内戦では、最も残虐だったのは子供兵だったが、内戦後の武装解除では「子供の人権」を保護するという観点から、彼らの責任を問うことはなかった。これも、人権保護という一つの「正義」の遂行が、戦争犯罪の免責という別の「悪」を生み出した事例である。
  筆者は、繰り返し「人権」という「原則論」の大切さを訴えるが、同時にそれを実行する結果が何をもたらすのかにも目を向けるよう示唆している。言い換えれば、「正義」はいつでもどこでも完膚なきまでに徹底されるものではなく、その場・その時の状況を勘案し、その場に応じた「正義」が行使されるべきだと述べている。一見妥協的に思える考え方だが、「正義」が別の「悪」を生み出すという困難な現場に立ち会って来た筆者の、体験に裏打ちされた強みを持つ言葉だと思う。 

〇「戦争」と「平和」は対立するのか?

「脅威」は、時に人間に、それからの逃れるための究極の手段として、戦争を選択させる。「平和」と「正義」の関係は一筋縄でいかなくても、やはり、何の罪もない一般民衆が、自らつくったのではない原因で命を落とすことは、何とか最小限にとどめたい。でも、その「脅威」の形成に、実は、罪のない民衆自身も主体的にかかわっているとしたら。

戦争と平和が対立する概念かどうかということも、そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。なぜかというと、ほとんどの戦争が、平和を目的に起こされているからです。平和を乱す敵と戦おうということで戦争が起きる。少なくとも指導者はそう国民を説得するわけですね。

〇「戦争」を冷静に見極めるための「平和と紛争学」

平和学のほうは、あきらかに戦争の予防を目指しているように思える。つまり、かなりはっきりと、戦争を悪として捉えています。政治行為としての戦争に反対するのだから、平和学自身が、すでにひとつの政治行為ともいえる。「平和と紛争学」はもう少し善悪を超えて戦争を捉え、争いを生む国家間、民族間の対立とその因果関係を淡々と冷淡に読み解く。
  気持ちは平和学にある。というより、人文系の学問すべてに対して、もし戦争という人間性に反する行為を、未来に向けて回避しようという動機がなかったら、学問に何の意味があるのか、そう考える自分が常にいます。
  でも、その一方で、戦争を悪として糾弾し、真正面から対抗することが、本当に戦争の予防につながるのか。それは、もしかしたら戦争に付き物の「武勇」を反動でいきり立たせ、逆に戦争する動機を煽ってしまうかもしれない……。こんな葛藤が、僕にとっての「平和と紛争」学なのです。

〇戦争とプロパガンダ

民主主義国家が戦争するには、戦争という政策決定を支持する民意がなければなりません。戦争は多大な戦費が必要だから、戦争継続のためには、それへの投資が国益の実現のためにうまく働いているというメッセージを送りつづけ、国民を納得させつづけなければならない。
  それゆえ、時の政府は、往々にして事実を誇張し、捏造する(中略)そういう行為をプロパガンダといいます。プロパガンダが始まって、知識人や芸能人なんかも戦争を支持し出して、国民の大部分が戦争の大義を信じちゃったら、もう遅い。戦争に反対したら「疑問を投げかける者は裏切り者だ」と、同胞から殺されちゃうかもしれない。だから、プロパガンダが勢いを増す前に、それを見極めないと意味がない

なぜ戦争の指導者がアートを使うかというと、アートは、戦争の正義を、理屈から「文化」に押し上げる力をもっているからです。

平和への脅威に立ち向かおうとするとき、戦争プロパガンダと同じこと、つまり『戦時の嘘』に挙げられているパターンと類似した手法を使ってしまうのです。平和の敵をこき下ろしたり、有名人を使ったり、目的を神聖化したりするなんて、とくに陥りがちです。もしかしたら戦争プロパガンダより、反対意見を排斥する傾向があるかもしれない

ネオナチは大嫌いだけど、そういう過激な思想を排除しようとすると刺激しちゃって、よけい奮い立たせてしまう可能性があるよね。だからと言って、目をつむる、つまり無視しちゃったら何の解決にもならない。
  ネオナチという現象をちゃんと直視し、それを生む原因を、ネオナチも、それに反対する側も一緒に考えられるような土台をつくれたらいいんだよな。たとえばノイズキャンセリングみたいに、ノイズそのものをなくすというより、一緒に共鳴して毒消しするみたいなことができたら、どうだろう。しかも、ちょっとしたユーモアやウィットをもって
  対立している者どうし、見方を変えれば共通の目的が生まれるかもしれないというような、敵愾心をもって相手側を見ているときには気がつかない物の見方を表現できたら、と思う。

まず日常生活に出現するプロパガンダに、敏感になることが必要だね。そして、自分もプロパガンダの法則に陥りやすいという自戒を、常に意識すること。さもないと、それに出くわしたとき、単純な怒りや嫌悪だけが先に立ってしまうから。  

〇セキュリタイゼーションと脱セキュリタイゼーション

  何か人々の日常の静けさを乱すようなことが起きて、それが多くの人々の関心事になる。そして「今までのやり方じゃダメだ」という気持ちが社会に広がり、ルールを変えようという事態が起きる。このようなときの民衆の心理と政府の政策決定の関係を分析する手法が、国際関係論という分野の学問にあります。「セキュリタイゼーション(securitization)」というものです。
  何らかの脅威の芽生えがあって、まだ人々はそれを認知していない。でも、あなたは、それをそのままにしておくと困ると考えている。対処するには、より多くの人々があなたの考えに同調して、一緒に行動しなければならない。そのためには、脅威の存在だけを説明しても説得力がないので、いろんな仮説を立てます。脅威をそのままにしておくと、誰がどう困るか、何が犠牲になるか。こうやって説得を試みるはずです。説得が成功すれば、みんなでその脅威に立ち向かおうということになる
  このような一連のプロセスをセキュリタイゼーションと呼び、それを仕掛けるあなたを「仕掛け人(securitizing actor)」と位置付けます。脅威によって犠牲になるかもしれない、だから保護しなければならない人やものを「推定犠牲(referent object)」とする。そして、仕掛け人がより大きな支持のために説得する人々を、セキュリタイズされる「聴衆(audience)」と位置付ける。これら、仕掛け人・推定犠牲・聴衆を、セキュリタイゼーションの3つの要素と定義します。

  セキュリタイゼーションでは、脅威そのもの、それが客観的にどれだけ危険か云々には興味がなくて、構成要素にも入っていない。あくまで、その脅威を利用する人、それによって影響を受ける人、そして、その脅威で犠牲になるかもしれない仮想被害に注目する考え方なんだよね。
  このようなセキュリタイゼーションは、いわゆる権力者に政治的な手段として使われる傾向があるともいわれています。そういうときには「推定犠牲」を明確に、そして時に誇張することによって、「仕掛け人」は、もう通常の方法では対処が不可能だと主張する傾向があり、従来の原則やルールを破る権力者の行為を、聴衆が許す土壌をつくる

  セキュリタイゼーションは、良いとか悪いとかの価値判断は扱いません。人間の本能と、それが集合体として増幅された結果なされる政治決定を、ひとつのプロセスとして冷静に客観視するツールだと思います。セキュリタイゼーションとは、「個々の人間が日常生活のなかで、自分自身と家族の安全を希求する本能的な欲求」と「戦争という国家の政治判断」が、実は直結していることを読み解くツールなんだ。

  脱セキュリタイゼーションを、反戦の道具と捉えると、うまく機能しないと思う。仮に本当に悪い敵がいたとして、奴らの交戦性を挫くために、はたして戦争、もしくは武力行使という手段が、本当に最適かどうかを、我々自身が少しでも冷静に観察できる力をつけるために、脱セキュリタイゼーションを目指す。

  戦争の意思決定者たちも、それに結果的に加担する人たちも、みな、それぞれの強い倫理観に導かれているのだと思う。だから、セキュリタイゼーションの仕掛け人の議論をこっちの倫理観で糾弾したって、単なる倫理観の対立として終わってしまう

  セキュリタイゼーションの「仕掛け人」を攻めたって無理です。だって、罪悪感がないんだから。でも、すべては「仕掛け人」が育む、極めて主観的な正義感から始まるのです。それに、より多くの支持を集めるため、大衆が抱く危機意識が操作される。そうして主観的な正義感は、客観的な政治意志へと昇華するのです。このメカニズムを理解することこそが、僕たち自身が、脱セキュリタイゼーションを身につけることなのだと思います。
  セキュリタイゼーションを成功させてしまうのは、実は「仕掛け人」ではなく、「聴衆」である僕たち自身なのですから。

〇自分達の「正義」を相対化する

  非人道的な行為を人権の立場から糾弾するのは、非常に大切です。しかし人権の保護は「人道的介入」のように戦争の口実にもなる。そして、社会のすべてが紛争で壊れてしまった状況で、戦後の社会を立ち上げるときに、我々のような部外者がすべての正義の代弁者のように人権の概念をつくり始めるのは、必ずしも平和構築につながらないのではないかと思うのです。

  人権が尊重される戦後をつくることが大切なのは当たり前ですが、目指すべきは、それがあって当然と、人権にその社会を支配させようとするものではなく、その場、その時に合った人権をつくってゆくことだと思うのです。
  人権は、僕たちの正義のなかで最も強い、人類全体のゴールとしてあるべきものと考えられているので、今言ったことが広く理解を得るのは難しいでしょう。でも、これを少しでも気に留めておけば、人権に悖る敵、もしくはそのように喧伝される敵が現れたとき、必要以上にコテンパンにしちゃうことを防げるような気がするのです。

  そもそも悪は、正義がないと成立しない。民主主義だったり、自由だったり、平和だったり。それを脅かすものが「悪」になる。「悪を倒す」って、字面からしたらいいことに決まっているから、僕らは、これからも「悪」を倒しつづけるのかな……。でも、なるべく人の血が流れないような方法でやれれば、それに越したことはないよね。そして、どんな「正義」の熱狂のなかにあっても、僕らの正義を「悪」のほうから見ようとする少数意見は大事なんだろう。

  異文化共存というような生易しい掛け声ではない。我々自身が生き延びるために、異質なものと、融合しなくてもいいから、身近にいても、なんとかやってゆく。こういう胆力を、集団としての我々がもつ以外にないのだろう。我々が排他する側の視点を、理解しなくてもいいから知る。その必要性を、生存のための条件として認識するしかない。

  独善的な「正義」は、突き詰めれば「粛清」(悪を排除すること)に行き着くのではないかと思う。それに対して、自身トランペットを演奏するという筆者の立場は、「セッション」(様々な立場の者が一時的に一堂に会すること)に近いのではないか。

本当の戦争の話をしよう: 世界の「対立」を仕切る

本当の戦争の話をしよう: 世界の「対立」を仕切る