塚本晋也監督「野火 Fires on the Plain」

  本作は昨年の公開時から気になっていたものの見逃していた。去る18日にDenkikanでリバイバル上映会があり、塚本監督のトークショーも併せて行われるというので、万難を排して見に行った。
映画「野火 Fires on the Plain」オフィシャルサイト 塚本晋也監督作品
  上映後のトークショーで、会場にリピーターが多かったということが明らかになったが、確かに時間を置いてまた見たいと思わせる作品だった。初見の感想を箇条書きで記す。

  • 圧倒的な色彩感

  監督は高校時代に大岡昇平の原作「野火」を読み、ぜひとも映画化したいと思っていたという。原作の中でも、圧倒的な自然描写と人間の卑小さの対比が印象に残ったとのこと。映画では森林の緑・空と海・花など、極彩色のフィリピンの自然が画面いっぱいに映し出され、それだけで圧倒される。私自身が高校時代に読んだ時には、どちらかといえば淡彩の印象だったので、この描写は新鮮だった。それと共に、実際に戦中の人々が見た光景はきっとこのようなものだったのだなと想像される。私達は戦争中のイメージを、ついモノクロ映像で思い浮かべるが、現実にはそうではなかった。NHKで戦前・戦中のモノクロ映像をデジタル技術でカラー復元したものを放送していたが、あの時も色がついただけで、遠い時代の人々が自分の隣人のように急に近く感じられた。祖父や曽祖父の世代が、フィリピンの異郷で感じただろう非現実感や自然への畏敬までも表現されているようだった。

  • 壊れる肉体

  「鉄男」でもそうだったが、塚本監督の作品には、肉体が損壊したり別物に変容するというモチーフが多いように思う。そのモチーフが、今回の作品では、戦場という舞台において、二つの形で表れている。一つは、凄惨な日本兵の殺戮シーン。アメリカ軍の銃撃(ここでは敵軍はまるで神のようなサーチライトの強烈な光によって表現され、生身の米兵は姿を現さない。これは意図的な演出だそうだ)によって、さっきまで生きて動いていた人間の手足がもげ、内臓や脳漿が飛散する。海外の映画祭では「これほど残虐にしなくてもよいのではないか」という意見も寄せられたそうだが、これでも実際に聞いた戦場の様子からすると抑えたものだという。人格や意思を持った人間の肉体が、一瞬で死体という肉の塊、物質に変わる。上映後、監督は「もし自衛隊が戦場へ派遣されることになったら、同じように若い人たちの肉体が壊れる」というような意味のことを言っていた。もっとも効率よく人を殺すことを目的とする戦争では、このような耐え難い光景が日常的になる。

  • 人肉食の象徴するもの

  二つ目は、人間の食糧化である。日本兵による人肉食は、原作でも大きな比重を占めており、この映画でも中心のテーマとなっている。若い兵士・永松は「サルの肉」と偽って昏倒した主人公・田村に干し肉を食わせ、またその後、手榴弾で負傷した田村はちぎれた自分の肩の肉を口に入れる。永松はサル=敗残日本兵を銃で狩っている場面を、田村に見られても悪びれない。彼の中では「日本兵=サル=食糧=物」であり、同じ地平で対等の関係を結ぶ存在ではない(そのように考えたら殺せない)。それに対して、度々助けてくれた田村には「人間=同じ地平に立つ存在」という意識を持っているようだ(だから最後まで殺さない)。永松の中には、人間を「物=非対等」と見る視点と、「同じ人間=対等」と見る視点とがある。しかし両者は併存しない。一度人間を「物」として見る感覚を持った者が、同じ人間を対等な存在として扱い、関係を結ぶことは困難だろう。
  だから「人間を食う」とは、人間同士の関係共同体から外に出てしまうような体験を指すのではないか。それは「人肉食」に至らずとも、「殺人」という「同胞殺し」でも同じことが言える。以前、橋本治が「なぜ人を殺してはならないか」という問いに、「人と関係を結べなくなるから」と答えていた。人同士が関係を結ぶためには、相手が自分とは全く無関係に独立した意思を持ち、決してこちらの思惑通りに動いてくれない存在であることを認め(つまり相手の他者性を認め)、自分と相手の立場をすり合わせていく、息の長いネゴシエーションが必要だ。そのためには、そもそも相手の存在を抹消しないことが前提となる。逆に相手を「抹消可能なもの=殺しうるもの」と捉えた時、そのような交渉は無意味になる。
  戦場では人を殺すことが常態化する。それは味方を「同胞=同じ人間=殺せないもの」としながら、敵に対しては「同じ人間」という認識をカッコに入れ「非人間=殺してよいもの」とする、意識の使い分けを強いられることである。だが、その使い分けは機械的にできるだろうか。「人間/非人間(物)」の境界線は、はっきりと引けるものだろうか。

  • 田村の奇妙な儀式

  飢えた田村は、美しい花が「私を食べて」と囁きかける幻聴を聞く。それは実際には死んだ兵士の肉片である。永松はずっと自分をコントロールしてきた安田を殺し、その肉を貪り食う。その光景に耐え難くなった田村は、永松を射殺する。だが死の直前、永松は「お前はおれを殺した後、きっとおれを食うだろう」と血で真っ赤に染まった口の中を見せる。その後のシーンでは田村の錯乱が示され、はっきり描かれないのだが、恐らく同様に永松を殺して食ったことが想像される。
  日本に帰国した田村は、作家として平穏な生活を再開する。だが、食事をする時、彼は奇妙な行動を取る。背中越しにしか示されていないが、体を激しく何度も前屈させる、見方によっては山刀でとどめを刺しているような動きである。フロアからこの「儀式」の意味を問われて監督は、原作で「奇妙なほど深々としたお辞儀」だったのを演技プランが決まらない内に撮影となったので、やや分かりにくい描写となったが、どのように想像してもらってもよく、戦場で心の傷を負ったことが伝わればいいと述べていた。
  原作通り「お辞儀」とするならば、自分が生きるために、本来殺して食べてはいけないものを食べてしまった田村は、食べること自体に罪責感を覚えるようになったと考えられる。そして、自分の生命維持活動である食事の度に謝罪しているのだと捉えることができる。また、これを永松を殺した体験の再現と見るならば、フロイト的な反復強迫と見ることもできる。記憶を抑圧した田村は、「殺して食べた」という体験を食事の度に反復している。あるいは「人間=殺して食べてはいけないもの/非人間=殺して食べてよいもの」の境界線が混乱するようになったとも思われる。彼は食べ物の「生きている声」を聞き、「食べる前に一度殺さなければならない」という行動を執拗に繰り返しているのかもしれない。

  上映終了後のトークショーで監督は、現状への危機感も強く表明していた。戦争の残酷さや悲惨さ、狂気について語るのはある意味で簡単だが、文学や映画など芸術作品においては、それが自己の根底的な在り様にまで突き刺さってこなければならないと思う。「野火」は見る者の感性の変容を迫る“不穏”な映画である。

野火(のび) (新潮文庫)

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