映画「タクシー・ドライバー」「キング・オブ・コメディ」

 映画「ジョーカー」に影響を与えたマーティン・スコセッシ監督・ロバート・デニーロ主演の「タクシー・ドライバー」(1976)「キング・オブ・コメディ」(1982)を立て続けに見た。

 極言すれば、両作に共通するのは、鬱屈した感情を抱く主人公が、現状打破のため“王殺し”を企て、それに成功するという点である。「タクシー~」のトラヴィスは、ベトナム帰還兵で腐敗した街の様子に憤り、いずれデカいことをしてやろうと密かに拳銃を手に入れる。「キング~」のパプキンは、自分にはコメディアンの才能があるはずだから、もっと世間で認められるべきだと考えている(現状では食べていけず、恐らく映画会社で端役などをもらっている)。

 彼らには、起死回生の手段というべき目的がある。トラヴィスにおいては、次期大統領候補を暗殺すること。パプキンにおいては、大物コメディアンであるジェリーに認めてもらい、彼のショー番組に出演すること。そのためにトラヴィスは体を鍛え、パプキンは強引にジェリーに接近し、彼に自分の送ったテープを聞いてもらうことを約束する。

 だが、その目論見は失敗に終わる。モヒカンに変貌したトラヴィスは、SPによって狙撃を阻まれて逃走を余儀なくされ、パプキンは事務所に押しかけても居留守を使われた挙句、とうとう警備員に摘まみ出されてしまう(逃げながら右往左往するシーンが「ジョーカー」の結末に引用されている)。

 その結果、彼らは強引な手段に出る。トラヴィスは少女娼婦を売春窟から救い出すことに標的を変え、実際に殴り込み、激しい銃撃戦の末に目的を達成する。王=大統領候補を殺す代わりに、竜殺し=悪者退治と囚われの財宝=少女の奪還に成功するのである。またパプキンはジェリーを誘拐し、引き換えに「一夜限りの王」として番組出演を果たす。

 破滅的な結末を迎えたかに見えた主人公だが、作品は奇妙なハッピーエンドを迎える。トラヴィスは、実際に少女を救ったヒーローとして両親に感謝され、マスコミにも取り上げられる。パプキンは一夜だけのオンエアが大反響を呼び、誘拐犯として逮捕・出獄後も一躍時の人となる(現実の出来事かどうかは議論の分かれる所だが)。

 

 主人公には共通点がある。第一にどちらもぱっとしない、あるいは悲惨な境遇にある点である。トラヴィスは戦場体験による不眠症の持ち主であり、パプキンは家庭環境に問題があった上に学校生活も落第生だったことが本人の口から語られる。

 第二に、彼らはそのような現状や生活に不満を抱き、「本来の自分はもっと高く評価されるはずなのに、周囲の環境がそれをさせずにいるのだ」と考えている点である。「山月記」の李徴が典型であるように、このような自己像は誰もが抱くものだ。しかし様々な挫折や葛藤を経て、過大な自己評価は修正されていく。「こうあって欲しい自分」と「かくある自分」との間に、その都度折り合いを付けながらうまくやっていけるようになるのが、恐らく経験の知恵だろう。

 だから、「こうあって欲しい自分」だけを押し通そうとする生き方は、第三者から見ると相当“イタい”。その意味で、これらの映画は、どちらも見る者に“イタい”思いをさせる作品である。

 第三の特徴として、主人公は自分の頭で作り出した妄想の世界に囚われている。彼らはそれを“現実”だと誤認しているので、そこから外れることができない。その結果、しばしば「空気」が読めない行動に出る。

 トラヴィスは映画館の売り子の女性をイケてるつもりで口説いて用心棒を呼ばれそうになるし、憧れの女性との初デートでポルノ映画に誘い相手から大顰蹙を買っても、自分の過ちに気付かない。パプキンは妄想に基づいて実際にジェリーの別荘へ押しかけたりする。自分の言動がズレたものであることを自覚していないだけでなく、周囲の人々がうんざりした反応を見せても、それに気づかない。

 そして彼らは、何度も自分が仮想した“現実”の練習をする。トラヴィスは拳銃で相手を撃つ際の決め台詞を、パプキンはジェリーの番組に登場した時の立ち居振る舞いを。もちろん彼らの仮想した“現実”は妄想・幻想の類に過ぎない。だが、どんなに現実との齟齬を突きつけられても、彼らはめげることなく、頭の中で作り上げた物語通りに現実を進行させようとする。

 

 彼らに対して、作品は良いとも悪いとも判断を下すような演出をしていない。ただ、彼らの言動を、若干の滑稽味を込めて描いている。むしろ、恐ろしいのは彼らの抱く“現実”=妄想を、何の抵抗もなく受け入れてしまった現実の側の薄っぺらさなのかも知れない。

 

 「タクシー・ドライバー」については、下記のサイトの分析が参考になった。以下引用。

<現実とシンクロした映画>
 映画の歴史上、この映画ほど現実とシンクロしながらその存在感を増していった作品は、他にないかもしれません。公開当時、この映画はヴェトナム戦争による精神的な後遺症が生み出した異常な事件を描いた作品とされていました。ただただ都会の中で孤独に生きていたからといって、ここまで異常な人間が生まれないだろう、多くの人はそう思っていました。
 しかし、今やトラヴィスは世界中どの国のどの街からも現れる可能性があります。そして、彼らのほとんどは戦場に行った経験などないはずです。(ヴェーチャルの戦闘ゲームは別として・・・・・)戦場での異常な体験ではなく社会からの孤立こそがトラヴィスを生み出す最大の原因であることは今や明らかになったのです。

<アーサー・ブレマーの魂>
 実際、この映画の脚本家ポール・シュレイダーは、1972年に共和党の大統領候補だったジョージ・ウォーレス(アラバマ州知事)を暗殺しようとしたアーサー・ブレマーの手記をもとに、この映画の脚本を書き始めたといいます。そして、彼がブレマーの手記に注目し、それを映画化したいと思った動機。それは彼自身がブレマーとの類似性に驚き恐れたからだというのです。当時まだまったくの無名だったポール・シュレイダーは、映画界にコネもなく、収入もなく、家もなく、車の中に住みながら脚本を書いていました。その間彼はまったく人に会うこともなく完璧な孤独の中で彼がもし脚本家としてすでに成功していたら、ブレマーの手記にひかれることもなく、「タクシー・ドライバー」という映画も生まれなかったかもしれません。
 もちろん、この映画の監督マーティン・スコセッシもまたブレマーの魂に強く心を動かされた人物でした。かつては神学校に入学し神父を目指していたこともあるスコセッシは、背も低く内気で典型的な映画オタクでした。女の子に声をかけるのも、もちろん苦手な彼は当然自らをトラヴィスに重ね合わせていたはずです。
 この映画でトラヴィスを演じたロバート・デ・ニーロもまたブレマーの魂に共鳴してしまった一人でしょう。

タクシー・ドライバー

  蛇足だが、拳銃を手に入れて孤独に体を鍛えるトラヴィスの姿が「太陽を盗んだ男」の沢田研二と重なった。・・・と思ったら、脚本を手掛けたポール・シュレイダーの兄が、「太陽を盗んだ男」原案・脚本のレナード・シュレイダーである。