戦争を個人の出来事に取り戻す

  大岡昇平『レイテ戦記』が戦争を「兵士」の視線で描くことに徹しているという先日の感想を書いた後、それを補足するような西谷修へのインタビューを見つけたので、ここに紹介する。IWJ Independent Web Journal 2015.4.27から。
「自由」と「戦争」をめぐって アメリカを駆動するメカニズムの正体とは~岩上安身による立教大学特任教授・西谷修氏インタビュー | IWJ Independent Web Journal

西谷修氏(以下、西谷・敬称略)「私は元々、20世紀の仏文学や哲学をやっていて、ジュルジュ・バタイユモーリス・ブランショエマニュエル・レヴィナスなどに関心を持っていました。彼らは、ヨーロッパの近代文明が世界を戦争に巻き込んだ時代において、『考えることとは何か』を突きつめた人たちです。

  ですから、私の最初の仕事は、世界戦争によって人間の基本的な存在条件がどう変わった、ということを考えることでした。そこにはいろんな事が含まれますが、ひと言で言えば、『私という主体は死ぬことができない』。これを、死の不可能性と言います。

  自分で『私は死んだ』と言う事はできないですよね。死を完了させるのは、必ず他者。自殺も、自分に与えた死を、受け取るはずの自分が消えるので、絶対に受け取れない。このように、主体の自立性が成り立たないことがあらわになったのが、世界戦争以後の状況です。

  では、世界戦争とは何なのか。どういう形で戦争が世界化したのか。近代的な文明社会が、最終的に戦争の中でひとつになるのなら、そういう展開を枠付ける論理とは何なのか。そういうことを考えてきました。

  この場合、戦争とは、机上に地図を広げて作戦を練るようなものではない。そういうことは統治に関与する少数の人間がやる。普通の人間にとっては、戦争は『私』がするものではないのです

岩上「『私』は主体者にはなれないのですね。ただ、一方的に巻き込まれ、結果を受け入れた時には『私』は消えている」

西谷「戦争は知らないうちに起こってしまい、気づいたら、われわれは戦争の中にいる。自分が主体となって扱えるものではない」

岩上「戦争ゲームでは、常にプレイヤーは司令官目線ですが、現実の戦争では99.99%の人はそんな立場ではない。事前に作戦計画は明かされず、報道もインチキで、何が起きているのかわからないまま巻き込まれていく。第二次世界大戦もそうでした」

西谷「満州事変は、誰かが一発撃ったら始まってしまいました。近代の戦争の主体は国家(集団)であり、個々の人間は巻き込まれるだけ。戦争とは、個に対する集団の圧倒的優位の状態なのです。

  個人は敵を選べません。国が『これは敵だ』と言えば、それが自分の敵になる。個人は、その枠組みの中でしか動けなくなります。動員という言葉がありますが、個人は動員されるのです

  戦争の中で、個人は主体になれない。戦争の主体は、国家(集団)である。しかし、戦争で実際に命を落とすのは個人である。大岡が「兵士の生死」を基点に戦記を書き起こしたのは、このような集団の優位に塗りつぶされた戦争を、もう一度個人の身の上に起こった出来事として捉え直そうとしたからだろう。