中島敦の転居
九州大学の過去問を見ていたら、2010年は黒宮一太『ネイションとの再会』からの出題だった。冒頭でハイデガー研究者ウーテ・グッツォーニの著作『住まうこととさすらうこと』を引用している。
さすらうことは、動いていること、途上にあることである。さすらいにおいて、異郷の新しいもの、慣れない異常なものに出会う。(中略)さすらいは固定した場所を持たない。(中略)むき出しの開放性に曝されたままである。(中略)ある場所から別の場所への移動は、空間と時間に拘束されない精神とただよう思想に結びついたもののように思われる。
人間の本性には、特定の場所に慣れ親しもうとする「住まうことと」と、固定した住居を持たずに漂泊する「さすらうこと」の二つがあるが、筆者は「わたしたちは『さすらうこと』を常態化させた時代に生きている」と論じる。それはここ十数年のグローバリゼーションの進展により顕在化したが、さらに根源をたどれば「慣習や伝統から自らを解放し、自らの理性的能力によって主体的に選択・判断」する「自由な個人」を理想としてきた「近代」の帰結であるとする。
そして一方で、アイデンティティの基盤となる、過去との結びつきを自覚できる「場所」がもはや存在しないと指摘する。例えば私達は、日本の歴史・文化・伝統と直接結びついているという感覚を失っている。だが、伝統は今もなお、私達の「思考/志向」を枠づける目に見えない「かたち」として、私達を捉え続けている。最終段落は次のように続く。
現代では(中略)グローバリズムが支配的潮流をなしている。それは、人びとが自明なものとして受け容れてきた共通の歴史性や文化的特質などを見いだしにくいものにしてしまう。いやむしろ、自明なものとして受け容れていることに疑いの目を向けさせ、それらへの囚われを解消するよう推奨する。このような思潮のなかに放り込まれた現代日本人からすると、自分たちが歴史的に共有してきたものを見いだそうにもなかなか難しいことだろう。そして、それが困難であるからこそ、人びとはすぐに国民の実体的な解釈に引きずられてしまうのである。
筆者が指摘する「思潮」とは、本質主義的文化観への批判のことだろう。「創られた伝統」論や「想像の共同体」の国民国家論などを踏まえて、「文化」を悠久に変わらぬ一枚岩のようなものと捉える考え方を批判し、それが国民国家形成の過程で発明されたものだという論議が、アカデミズムの大きな潮流となった(その動向は入試問題で出題される評論にも反映している。河合塾編『現代文と格闘する』改訂版2006は、清岡卓行「アカシヤの大連」が例題だったり、イ・ヨンスクからの出題を最後に持ってくる辺り、そのような動向を意識したといえよう)。しかし、伝統や文化の束縛を単に批判し、そこから逃れることだけを賞揚しても、実際に伝統や文化が「自分たちの思考/志向を逃れがたく枠づけている」様態を分析できない。
そして現代の多くの人々にとって、伝統や文化を実感できる「場所」は、グローバリゼーションの中で希薄化してしまっている。だから、実際に伝統や文化が、自分たちの生活の中でどのように機能しているのか、よく考えようとせずに、固定的で観念的な「日本文化」論に飛びついてしまう。最後の一文「国民の実体的な解釈に引きずられてしまう」は、そういうことだろう。
黒宮の著作では現代を「『さすらうこと』を常態化させた時代」と述べているが、それは一方では「『さすらうこと』が強いられた時代」ともいえるのではないかと思った。連想したのは中島敦のことだ。横浜高等女学校の教員時代、彼は学校誌『学苑』に、「お国自慢」というタイトルで次のように書いた。
生れは東京。その後処々を放浪。従つて、故郷といふ言葉のもつ(と人々のいふ)感じは一向わかりません。猛烈な愛郷心、郷土的団結力・生活や言葉の上の強烈な郷土的色彩等々をもつた方にお逢ひする度に、羨望と驚嘆の交じつた妙な感じに打たれます。
中島敦が「山月記」「李陵」の作者であるばかりでなく、「巡査の居る風景――一九二三年の一つのスケツチ――」「D市七月叙景」「虎狩」「光と風と夢」『南島譚』『環礁』などにおいて、朝鮮半島や満洲や南洋群島など帝国日本の範囲から、R・L・スティーヴンスンのサモアにいたるまで、コロニアルな状況に生きる人々を積極的に主題とし続けた作家であったことは、川村湊氏によって先鞭を付けられた多くの研究により、現在広く認められている。
彼の作品には「放浪」=「さすらうこと」の途上にある人物が多く描かれる。彼らは、いずれも現在の居場所にしっくりと来ず、不安定感を抱えている。この「場所」とは物理的な位置だけでなく、趙教英における「巡査」という職務だったり、趙大煥における「学校」という制度であったりする。あるいはマリヤンのように、半ば内地化・半ば現地文化というダブルスタンダード的な混乱に見舞われたミクロネシアであったりする。
そのような人々の内面の動きを敏感に捉えた中島の感性の根底には、上に引用したような自身の放浪体験があったのだろう。そして放浪を自分に課し続けようとするかのように、晩年に妻子を残してミクロネシアに旅立つ。「恐らく僕の幽霊は、書かれなかつた原稿紙の間をうろつき廻ることでせう」と、後悔することを予想しながら。
それまでささやかだが、幸福な家庭を営んでいた横浜本郷町の自宅は手離し、妻子は中島の実家である世田谷に移り住んだ。それは中島の健康上仕方のない選択だったが、心から望んだものではなかった。妻への手紙には、こんな言葉がある。
帰れ帰れとお前はいふが、一体何処へ帰るんだ? オレの家はもう無いぢやないか? トレニアと白サルヴィヤの咲いてる筈のオレの庭もないぢやないか? 三月になると、桜草どもが、もう蕾をふくらまし始める、あのボロ庭もないぢやないか?
お前達は、もう世田谷の生活に慣れたらうが、しかし、オレの想像の中には、本郷町の家にゐるお前達しか、浮かんでこない。オレの書さいの机の下にゴソゴソもぐりこんでくる格や、スコップをもつて、花だんをつついてゐる格や、家の前の道で遊んでいる桓や、牛屋のだんだんの所でオレの帰りを待つてゐる桓や、台所でをかしな歌をうたひながら、仕事をしてゐるお前やそんな昔のすがたばかりが何時も眼の前に浮かんできて仕方がない。
熊本に来た当初、この中島の書簡の一節が時々浮かんだ。しかし、先日久しぶりに京都へ行って、以前の自宅近くから大学への道を歩いてみると、あまり変化していないのにほっとした。「自分はここにいなくても、ここはここであり続ける」という事実が、腑に落ちたものとして少し納得できた。