国民の「生命」を守るという大義名分を掲げない侵略や戦争があるだろうか

  加藤前掲書によれば、満蒙について「国民的生存」のため必要であるとする議論は、1929年の世界恐慌で現実味を帯びるようになった。前満鉄副総裁・松岡洋右が「満蒙は我国の生命線である」と主張したのは1931年である。
  それに先立つ1914年、中国学者内藤湖南は、『支那論』で中国の国土が日本国民に「生存」に不可欠であり、一部なりとも割譲すべきではないかと主張した。

  支那の論者殊に近頃の論者は、外種族の侵略を何でも支那人の不幸の如く考へて居るのであるが、其の実支那が長い民族生活を維持して居ることの出来たのは、全くこの屡々行はれた外種族の侵入に因るものである。(中略)外種族の勢力は、支那人から考へれば、全く暴威を以て政治的に行はれたのであるが、今日の外種族の勢力は経済的に平和に突き込まれるのである。東洋文化の発展に、ある時代の分け前の部分を働いて、そして支那の現状を革新せんとする――或は之を自覚せないながらも――日本の経済運動等は、この際支那民族の将来の生命を延ばす為には、実に莫大な効果のあるものと見なければならぬ。恐らくこの運動を阻止するならば、支那民族は自ら衰死を需めるものである。

  この大きな使命からいへば、日本の支那に対する侵略主義とか、軍国主義とかいふ様な事の議論は、全く問題にならない。最もこの侵略主義とか軍国主義とかいふ様なことは、単にその問題から考へても、日本と支那との間の関係を論ずるものとしては甚だ不適当なものである。日本の近来の国論が本心を失してゐるといふ事は屡々言ふ所であるが、日本人が現に国内の事に関しては、社会主義の如き潮流が盛んになつて来て、それは個々の人の生存権から出発した議論で、一方では余りある富を抱いてゐる人もあるのに、一方には生存を制限される程苦しい位置にあるなれば、力を以て生存権を要求してもよいといふのが其の主義である。然るに日本と支那との国際関係だけは、支那の如き親譲りの過大な財産を相続して、而もそれを十分に世界のために利用することもなしに、所謂天物を暴殄してゐる其の傍に、日本の如き人口過剰に苦しんで国民の生存権の問題に触れてゐるものがあつて、而も隣国の親譲りの相続権を指を咬へて見てをらなければならぬといふ様な事は、甚だ矛盾であるといはねばならぬ。

支那の土地を或る点迄は日本の市場として思ひ切つて譲り渡すといふことが、国際平和上非常な必要な問題である。若し日本を圧迫するのに興味を持ち過ぎて、何時迄もその政策を継続したならば、朝鮮満洲において死者狂ひにならなければならぬ日本人は、支那においても十分死者狂ひになつて他の国と争ひ得るのである。これが国際上将来の大きな禍根ではあるまいか。

  本書は1938年に『支那論 附新支那論』として創元社から新たに合本として刊行されたが、子息である内藤乾吉・戊申の「著者は嘗て「新支那論」に於て早晩日支間に破裂の避くべからざることを予言したが、十数年後の今日、幸か不幸か我々はその予言の的中せるを見た。(中略)東亜の指導者たる使命を有する日本国民は自ら支那に対する理解と見識とを有たねばならぬ。私等は亡父の此書がその為めに役立たんことを願ふ」という序文が付されている。

  「○○という地域・資源は、我が国民の生存に欠かせない。だから武力を用いても確保しなければならない」という論理が、国家の侵略を正当化するものとなりうるのは、国民の「生命」を維持・管理するという近代国家の存在意義が前提にあるからだろう。
  現在の事態もまた、私達の命を人質に取る形で話が進められており、それが国民の「生命」を守る最良の手段であるかどうか、常に疑いの目を向けていく必要がある。

  場合によっては、地理学や生物学まで逆手にとって、「○○という土地は我々に必要だ」という主張につながっていく危険なパターンの一つが、「環世界」を唱えたユクスキュルとナチズムの関連性として指摘されていた。

  エコロジー創始者ユクスキュルの研究が登場したのは、いずれも二〇世紀に人文地理学を根底からくつがえることとなった、ポール・ヴィダル・ド・ラ・ブラーシュによる、人口とその環境のあいだの諸関連についての研究や、フリードリヒ・ラッツェルによる国民の「生存圏」についての研究からほどなくしてのことである。それゆえ『存在と時間』の核心をなすテーゼ、すなわち、人間の根源的な構造としての世界内存在をめぐるテーゼを、ある意味で上記のような問題領域全体に対するひとつの回答として読み解く可能性も、おそらく排除できないだろう。(中略)あらゆる国民は、本質的な次元として、その生存圏に密接に結びついているとするラッツェルのテーゼは、周知のように、いずれナチズムの地政学に多大な影響を及ぼすことになる。両者の近似性は、ユクスキュルの知的伝記のなかにでてくるある不思議なエピソードに刻印されている。ナチズムが台頭する五年前の一九二八年、穏健このうえないこの科学者が、いまではナチズムの黒幕の一人と目されているヒューストン・チェンバレンの『一九世紀の基礎』のために序文を執筆しているのだ。

開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

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生物から見た世界 (岩波文庫)

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