戦争と認識されなかった戦争が「泥沼化」を招いた

  満州事変から日中戦争に至る経緯を調べていて、下記の記述にぶつかった。文中の橋川とは橋川文三のことだ。

多くの日本人にとっての戦争とは、あくまで故国から遠く離れた場所で起こる事件と認識されていた(中略)橋川はいう。考えてみれば、三七年七月に勃発した日中戦争は不思議な戦争だった。日中双方ともに宣戦布告を行わないまま戦闘が続けられるいっぽう、裏面では、太平洋戦争末期にいたるまで、種々の対中和平工作が執拗に続けられていた。日本人はあれを戦争だと思っていたのだろうか。日中戦争の実体と、日中戦争に対する日本側の認識とのずれが致命傷となって、太平洋戦争に突入する際の判断が、上は為政者から下は国民まで狂わされたのではないか。
  このように橋川は問いかけ、日中戦争と太平洋戦争とを連結させることばとして、「泥沼化」という形容句しかもたなかった我々の硬直した頭脳を大きく揺さぶった。

  そして著者の加藤陽子は、「支那事変」に対する当時の認識として「領土侵略、政治、経済的権益を目標とするものに非ず、日支国交回復を阻害しつつある残存勢力の排除を目的とする一種の討匪戦なり」という言葉を引き、「戦争の性質を、あたかも匪賊を討つような戦いであると表現していた」とする。
  手元の辞書を調べると、「匪賊」とは「徒党を組んで略奪・殺人などを行う盗賊」の意味であり、「匪」には「非行をなす者」という意味があるという。英訳ではbanditだそうだが、現代の言葉に直すと“ならず者”“テロリスト”といった語感になるのではないかと思う(banditには政治的テロリストの意味もあるという)。
  実際に、当時多くの人々が、「大東亜戦争」つまりアジア太平洋戦争開戦に際して、解放感を味わったという。

中国大陸における日本の軍事的展開は、軍部も政府もこれを〈事変〉として〈戦争〉としないまま、文字通り泥沼にはまりこんでしまった。中国大陸で軍事的に行き詰まったその事態のなかで、日本は一九四一年一二月八日に米英に対する太平洋戦争を開始した。この対米英戦の開戦は、中国大陸における日本のあいまいな、理由のない戦争を正当化したのである。この開戦をもって中国との戦争を正当化したのは政府や軍部だけではない。国民もまたそうであった。対米英戦の開戦が人びとの重苦しい気分を晴れ晴れとさせたのである。(中略)中国大陸で戦争に従事している兵士たちが、対米英の開戦を聞いて歓喜したのである。「やった!」と狂ったように叫んだというのは異常でさえある。それだけ大陸において彼らが従軍している戦争自体が重苦しいものであったのである。戦線の兵士も銃後の国民も一九四一年一二月のその日に〈本当の戦争〉が始まったと思ったのである。中国との〈戦争〉は〈事変〉と偽称され続けた。日中戦争とは、国民の意識においても隠され続けた〈戦争〉であった。

日本人は中国をどう語ってきたか

日本人は中国をどう語ってきたか

  先行きの見えない、何を相手にしているのか分からない戦争に閉塞感と消耗感を抱いていた当時の人々は、米英を主軸とした西洋中心主義的な世界の支配構造をひっくり返すのだ、という壮大な使命に光を見出したということだろう(どこまで共有されていたか分からないが)。

  翻って現政権が今期の成立を狙う安保法案は、自衛隊員のリスクを指摘する野党側と、リスクはないと否定する政権との間で論戦が起こったが、日中戦争に対する政府の態度を思い起こさせた。仮に派遣部隊が攻撃されても、あくまでも国家間の戦争ではなく、現地の不法勢力によるトラブル=事変であると、現状を見ないまま、ただ人命を無意味に投入・浪費していくのではないかと。