香月泰男「1945」「私のシベリヤ」


 辺見庸『1★9★3★7』で引用されていた香月泰男の文章「私のシベリヤ」が収められた立花隆『シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界』を手に入れた。

 1969年、当時29歳だった著者が、58歳の香月の元へ足繁く通い、生い立ちから応召、シベリヤ抑留、帰国までを聞き取りまとめたもの。立花氏は実際上「ゴーストライター」だったが、「私が書いたものの中でも、自分で最も気に入っている作品」だという。内容は、テープレコーダーなどが一般的でなかった時代なので、著者の記憶やメモに基づいてまとめたものとなっている。その結果、「香月さんの生言葉(そのメモ)がそのまま存在している部分もあれば、私が一連のやりとりをふまえて、少し抽象度の高い文章表現にまとめてしまたところもある」。ただし「全体をまとめた段階で、香月さんに全部目を通してもら」い「基本的に書き直しはほとんどゼロだった」。

 このような経緯で成立した本書で、印象に残ったのが辺見の引用した「赤い屍体」のエピソードだ。敗戦によりソ連の収容所へ移送される香月は、その道中で「満人たちの怨恨と憎悪が爆発」しているのを感じる。

 中国、満州で、軍隊にかぎらず日本人がずいぶんむごいことをしてきたのをかなり知っていた。
 反抗的な一部落の住民全員を、穴を掘って生き埋めにしたこともあるという。それを目撃した人の話では、穴の底から老人が「助けてくれ!」と叫び、札束をふりまわせて見せるのを、兵隊がスコップで頭を叩き割り、頭をかかえてうずくまった所を上からどんどん土をかぶせたというようなことまでしたらしい。(中略)その話をしてくれた兵隊は、重苦しい口調で、
「あんとき、なんであんなことをしたのか、自分でもようわからん……」
 といったまま黙りこくってしまった。自分でもなぜしたのかよくわからないような残忍非道なことが、戦争と軍隊という異常な環境の中で、しばしば行われていたのである。しかも、そういう兵隊たちも一人一人とりだしてみたら、ごくごく平凡で善良な一市民でしかないような男が大部分なのである。私自身が、そういう環境におかれていたら、どうしていたろう。自問してみると、あまり自信はない。自分で手を下すことはさけたとしても、やはり黙認してしまっていたのではないだろうか。
(中略)
 奉天を出てしばらくいった所で、線路のわきに屍体が転がっているのを見た。満人たちの私刑を受けた日本人にちがいない。衣服を剥ぎとられた上、皮を剥がれていたらしい。列車が通りすぎるほんの短い時間に、はっきり確かめることは不可能だったが、そうとしか思えない。皮膚とすれば、あまりにも色が異常だった。全体が乾燥してちぢみあがったような感じで、赤茶色をしていた。その上、赤い絵具でボディペインティングでもしたかのように、たて縞模様が全身に走っていた。それは確かに、解剖学の教科書にのっている、人間の筋肉を示す図そのままだった。生皮を剥がれたのか、殺されてから剥がれたのか。溝に半身を落し、かすかに持ちあげられた片腕が空をつかむようなかっこうをしていた。
 日本に帰ってきてから、広島の原爆で真黒焦げになって転がっている屍体の写真を見た。そのとき私の頭に、満州で見た、私刑にあい皮を剥がれた赤い屍体が浮び、赤と黒の二つの屍体は頭の中で重なり合ってくるのだった。一九四五年をあの二つの屍体が語りつくしている。
 戦後二十年間、黒い屍体は語りつがれ、語りつくされてきた。ヒロシマアウシュヴィッツとならぶ大戦の二つの象徴となった。それは戦争一般が持つ残虐性の象徴としての無辜の民の死だった。
 黒い屍体によって、日本人は戦争の被害者意識を持つことができた。みんなが口をそろえて、ノーモア・ヒロシマを叫んだ。まるで原爆以外の戦争はなかったみたいだ、と私は思った。
 赤い屍体は、加害者の死としての一九四五年だった。あのとき満鉄の線路のそばに転がっていた屍体。そののの素性は知らない。あるいは、その男も王道楽土建設の幻想にあざむかれて、満州開拓にやってきた貧農の息子かなにかで、彼自身戦争の被害者だったといえるような男かもしれない。しかし、それでもやはり私の眼には、それは加害者のあがなわされた死として映った。
 私たちは、強制的に無理やり戦争にひきずりこまれ、無理やりその一部をになわされてきた。そして今また、無理やり身をもってそのあがないをさせられようとしている。赤い屍体は、正にその無理やりずくめの運命そのものを暗示しているようだった。赤い屍体になるべきなのは、もっと別の奴らだ。どこかで未だにぬくぬくとしている奴らだ。そうも思えた。しかし同時に、仕方がないという気持もあった。仕方がないと思って戦争がはじまるのを見ていた。仕方がないと思って兵隊になった。日本人が中国、満州でずいぶんひどいことをするのも知っていた。それでも、黙ってるより仕方がないと思っていた。だから、なにかつぐないをさせられるのも仕方がないと思っていたのだ。
 この戦争で無数の赤い屍体が出た。私たちシベリヤ抑留者も、いってみれば生きながら赤い屍体にさせられたのだ。
 私には、まだどうもよくわからない。あの赤い屍体について、どう語ればいいのだろう。赤い屍体の責任は誰がどうとればよいのか。再び赤い屍体を生みださないためにはどうすればよいのか。私は何をすればよいのか。
 それを考えつづけるために、”シベリヤ・シリーズ”を描いてきたのかもしれない。ことばではうまくいえない。だが少なくとも、これだけのことはいえる。戦争の本質への深い洞察も、真の反戦運動も、黒い屍体からではなく、赤い屍体から生まれ出なければならない。戦争の悲劇は、無辜の被害者の受難によりも、加害者にならなければならなかった者により大きいものがある。私にとっての一九四五年は、あの赤い屍体にあった。もし私があの屍体をかかえて、日本人の一人一人にそれを突きつけて歩くことができたなら、そして、一人としてそれに無関係ではないのだということを問いつめていくことができたなら、もう戦争なんて馬鹿げたことの起りようもあるまいと思う。
 私にできることは、たかだかそれを絵にすることでしかなかった。絵としては、皮を剥がれた屍体をうまく表現できないので、裸体を条痕でおおった。そして、画面に1945という年数をかきいれた。

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界