石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』

ヒトラーのようなレイシストが巨大な大衆運動のリーダーとなって首相にまで上りつめた経緯や、ヴァイマル共和国の議会制民主主義が葬り去られ、独裁体制が樹立された過程、さらにナチ時代のユダヤ人の追放政策が未曽有の国家的メガ犯罪=ユダヤ人大虐殺(ホロコースト)へ帰着した展開は、ドイツ現代史・歴史学の枠をはるかに越えて、二一世紀を生きる私たちが一度は見つめるべき歴史的事象であるように思われます。(p.348)

 本書はナチ・ドイツ成立の経緯とその特質を、最新の研究成果を取り入れつつ、極めて平易に叙述している。未曽有のファシズム体制がなぜ確立したのかを考える上で、非常に有益な書である。

 (1)
 第一・二章では、「雨後の筍のように叢生した反ユダヤ主義的極右政党のひとつ」(p.33)に過ぎなかったドイツ労働者党に入党したヒトラーが、明確なヴィジョンや組織力を持っていたため、先行する党員達を差し置いて主導権を握りナチ党の結成に至ったこと、さらに党内権力闘争を勝ち抜き、ミュンヘン一揆の失敗を経て、国会選挙でナチ党が第一党を占めるまでが述べられる。
 ヒトラーの権力体制の特質として、筆者はマックス・ヴェーバーのいう「カリスマ的支配」を挙げる。

 カリスマ的支配とは、支配者の人格とその人格が持つとされる天賦の資質――とりわけ呪術的能力や啓示、英雄らしさ、精神や弁舌の力――に対する人びとの情緒的帰依によって成り立つ社会的関係のことである。
 人がカリスマ的支配者となるためには、その人をカリスマと認め、その人の非日常的な偉業によって情緒的に魅了され、その人に付き従おうとする人びと=帰依者の存在が必要だ。帰依者は、カリスマにカリスマらしい資質や能力が認められ、その力が実証される限り付き従うが、そうでなくなれば両者の関係は動揺し、カリスマ的支配は破綻へと向かう。それを避けるため、カリスマは間断なく偉業を成し遂げねばならない。このような不安定で、緊張した関係がカリスマ的支配の特徴だ。(p.59-60)

 ヒトラー本人に、人々を熱狂させる演説の才能や、ある種の人格的魅力があったのは確かだろう。だがより重要なのは、彼がそれをよく自覚し、その魅力を最大限発揮できるような組織作りにも長けていたことである。
 ナチ党は自ら「ヒトラー運動」と称したが、要するに抽象的・普遍的な理念を政治目的とするのではなく、ヒトラーという一個人に党の全てが委ねられていたということだった。党綱領作成にヒトラーが反対したこと(p.85)、ナチ党では合議の場が存在せず、あらゆる意思決定がヒトラーによって下されたという事実がそれを物語っている。

 カリスマ的支配は、選挙で代表を決めたり、多数決で決定を下したりする民主主義の基本ルールを必要としない。それはむしろカリスマ的支配を阻害する。
 事実、ナチ党には党の意思決定の場としての合議機関は存在せず、党首を選出する規則も任期も定められていなかった。入党条件はヒトラーに無条件に従うことだ。
 創成期のナチ党は、ヒトラーヒトラーに付き随う者の情緒的共同体であった。その構造は、ヒトラー=中心を共有する三重の同心円に喩えられる。(p.61-2)

 閣議を開かない点に、ヒトラー政権運営の特徴があった。
 これには合議にいっさいの価値を見出さないヒトラーの考え方が端的に表れているといえるだろう。つまり大臣を打ち揃えて、政府内の合意形成をはかりながらリーダーシップを発揮する――ヒトラーは、そんなタイプの指導者ではなかった。むしろ国民の圧倒的人気に裏打ちされたカリスマとしての求心力を前提にして、自らが掲げる大局的な針路に各大臣が進んで従い、その意に沿って働くことを期待した。政策は個別的にヒトラーの裁可を得て実行に移された。
 閣議が開かれないことの代償として、大臣間、省庁間の意思疎通が滞る事態がしばしば生じた。だがヒトラーはそれを気にしなかった。むしろ大臣の不安や省庁間の溝、相互不信、対立を助長しながら、最終決定者としての自らの威信を高めたと言えるだろう。
 「分割して統治せよ」は政府・閣僚に対してだけでなく、ナチ党の上級指導者であるヒトラーのサブリーダーたちや、党の全国指導者や大管区長などに対しても用いられた原則だった。それはナチ時代を貫くヒトラーの政治指導の鉄則となった。(p.196)

 ナチ党には全国指導者や大管区長の会合は存在したが、そこから党の中央委員会、あるいはその政治局と呼びうる一元的な党の意思決定機関は、結局、誕生しなかった。これはナチ体制の特徴である。集団指導体制を嫌うヒトラーにとって、権力が自分以外の他に集中する可能性のある機関の存在は、望ましいものではなかったのだ。
 近年の歴史学では、ナチ体制の特徴を説明するさい、多頭支配(ポリクラシー)という概念を用いて説明することが多い。ナチ体制を、ヒトラーの単独支配(モノクラシー)としてではなく、ヒトラーのもとで互いに競合し、時に反目しあう多数のサブリーダーによる多頭的支配、として捉える見方だ。
 もちろんそれは、ヒトラーがサブリーダーに担がれただけの「弱い独裁者」だったという意味ではない。サブリーダーたちは党の分肢組織や付属団体を従えてはいても、何よりもヒトラーから評価され、信頼を得ることを切望していた。それこそ彼らの最も重要な権力の拠り所だったからだ。(p.202)

 ナチ党は、ヒトラーという個人=権力の淵源を中心とした同心円状の組織で、それぞれの構成員がより中心に直結することを願って(カリスマに認められることを求めて)忠誠心を競い合った。

 (2)
 またナチ党が権力を掌握した要因としてよく挙げられるのが、大衆宣伝の活用である。しかし彼らの行ったことは、単純に事実や主張を「多くの人に説明して理解・共鳴させ、ひろめること」(『広辞苑』)ではなく、プロパガンダだった。

 プロパガンダは単なる宣伝でも広報活動でもない。それは政治指導者・為政者が特定の情報を大衆に伝え、大衆の行動をある方向へと誘導することだ。自らに不利な情報はいっさい伝えず、有利な情報だけを誇張、潤色、捏造もお構いなしに発信し続け、大衆の共感を得る。敵を仕立て上げることも情報操作ひとつでたやすいことだ。真偽を問わずネガティブな情報だけを流し、マイナス・イメージを刷り込み、大衆の怒りを煽るという、ナチ党が弱小政党から巨大な大衆政党へ台頭するなかで鍛えあげた政治宣伝の手法が、いまや国の政策として実践されることになったのだ。(p.194-5)

 例えば国会を無力化するための1933年3月の選挙では、共産主義者を「国民の敵」と位置づけ、ラジオや飛行機による宣伝戦を積極的に行った。ここでも重要なのは、既にヒトラー内閣成立下の選挙で、「公権力の介入によって、ナチ党に圧倒的に有利に選挙戦が行われた」ことである。

 例えば「ドイツ国民を防衛するための大統領緊急令」は集会と言論の自由に制限を加え、政府批判を行う政治組織の集会、デモ、出版活動等を禁止した。共産党をはじめ、野党勢力はナチ党の口汚い攻撃に応戦しようにも自由な意見表明ができなくなった
 さらに、驚くべきことに、ナチ党の組織である突撃隊と親衛隊がプロイセン州の「補助警察」として州政府の治安組織に組み込まれた(中略)補助警察は先の大統領令を執行すべく、反対派の弾圧に猛威を振るった。(p.143-4)

 ナチの宣伝力は、ともすればその手法の卓越性・現代性ばかり注目されがちだが、このように政治権力による異論の封殺と両輪であったことは見過ごしてはならないだろう。

 (3)
 そしてナチの台頭を許したのは、高を括っていた人々である。例えばヒトラーを首相にしたヒンデンブルク大統領やシュライヒャー、パーペンらその周辺の保守派は、ヴァイマル憲法の無力化や再軍備共産主義勢力の駆逐などをヒトラーの手を借りて行った後、使い捨てればよいと考えていた(p.132)。これは彼らの大きな誤算だった。
 同様に、権力掌握後のナチが次々と人々の人権を制限する法令を出して行っても、多くの人々は我が事とは捉えなかった。

  保守陣営・市民層が期待していたマルクス主義の撲滅は断行された。しかし同時に、それまで憲法で保障されていた、国民が自由に安心して暮らすための最低限の基本的権利、すなわち人身の自由、住居の不可侵、信書の秘密、意見表明の自由、集会の自由、結社の自由などの権利も損なわれてしまった。これに国民が抗議の声を上げなかったことが、独裁体制へ道を拓くことにつながった
 なぜその途中の過程で、人びとは反発しなかったのだろうか。

 そのひとつの答えは、国民の大半がヒトラーの息をのむ政治弾圧に当惑しながらも、「非常時に多少の自由が制限されるのはやむを得ない」とあきらめ、事態を容認するか、それから目をそらしたからである。とりあえず様子見を決め込んだ者も、大勢いた。実際、当局に拘束された者は多いとはいえ、国民全体から見ればごく少数に過ぎなかったのだ。
「議事堂炎上令は一時のもので、過激な共産主義者が一掃されればすぐ廃止されるだろう」「基本権が停止されたといっても、共産主義社会民主主義のような危険思想に染まらなければ弾圧されることはない」「いっそヒトラーを支持して体制側につけば楽だし安泰だ」。そんな甘い観測と安易な思い込みが、これまでヒトラーとナチ党から距離をおいてきた人びとの態度を変えていった。(p.167-8)

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 「失業対策や健康対策など、ナチは良いこともやった」というのは、しばしば持ち出される議論だ。実際、1951年の西ドイツでの意識調査によると、ドイツが最も上手くいった時期としてナチ時代の前半を挙げる人が、回答者の半数近くいたという。果たして現実はどうだったのだろうか。
 筆者は、ヒトラー政権発足からわずか4年で、480万人いた失業者が約5分の1の91万人にまで減少したことを挙げる。しかしその背景として、ヒトラーの首相就任直前から徐々に景気回復の兆しが見えていたこと、さらに公共事業や雇用促進支援などの景気対策も基本的には前政権の継承だったと指摘し、オリジナルな政策としては次のようなものがあったと述べる。

 第一は、労働市場における若年労働力の供給を減らすために、さまざまな形の勤労奉仕制度を導入したことだ。(中略)第二は、労働市場における女子労働力の供給を減らす措置がとられたことだ。具体的には、女子就労者を家庭に戻し、女子失業者の就労意欲を削ぐために、結婚奨励貸付金制度が導入された。(中略)三四年には夫婦の共働きを禁ずる法律が制定され、結婚とともに新婦は退職を余儀なくされた。(中略)第三は、失業対策を軍事目的と結びつけたことである。(中略)三五年三月、ヴェルサイユ条約に反して一般徴兵制が再導入された。徴兵制度は失業者数の減少に大いに寄与した。入営がこの年の秋から一九一四年生まれの男子を対象に始まったが、それ以降、毎年一〇〇万人以上の若者が労働市場から姿を消した。(p.211-3)

 つまり、若者や女性など、労働市場に外から入ってくる人口を無理やりせき止めることで、成年男子の雇用数を増やしたというものだ。生産性を無視した詐欺紛いの解決策だが、確かに「統計上の成果をあげた」ので「ヒトラーの偉業」とされた。
 有名なアウトバーンの建設も、実際には20世紀初頭から建設され始めており、当初ナチ党は予算の無駄遣いだと反対の立場に立ったこと、ヒトラーが大々的に始めたアウトバーン建設も、実際には利用者が少なく自転車の通行さえ許可されていたことが、本書で指摘されている。それにも関わらず

ヒトラーアウトバーンを造り、失業者に職を与えた」という台詞がまるで決まり文句のように、政府のプロパガンダを通じて津々浦々に広まった。そしてそれはこの時代の「公的記憶」となって、戦後にまで引き継がれることになる。(p.223)

 私達はいい加減、ナチのプロパガンダに基づく史観から目を覚まさなければならない。

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 ドイツ民族の純粋性とユダヤ人排斥を主張するレイシズムは、ナチ党の初期から掲げられていたが(p.39-41)、ナチ・ドイツではそれが国全体の政策として実施された。ただしヒトラーが最初に考えていたのは、公民権の剥奪と強制的国外退去だった(第六章)。
 ユダヤ人の財産没収や追放など、公然とした人権弾圧を、なぜ他の多くのドイツ人は見過ごしたのだろうか。本書では言語学者ヴィクトール・クレンペラーの『私は証言する』の一節が引かれている。

 ドイツが外交上、非常な成功をみたことはヒトラーの地位を著しく強化した。これ以前からすでに感じていたのだが、ふだんまともな考えをする多くの者が、内政の不公平に鈍感になり、とくにユダヤ人の不幸をきちんと把握せず、近頃ではヒトラーにかなり満足しだしたように思える。内政上の後退の代償にヒトラーがドイツの国際上の力を取り戻すならそれもよかろう、というのが彼らの判断。(p.290)

 華々しい外交上の成功を含めたプロパガンダに、人々は眩惑されただけでなく、「人口で一パーセントにも満たない少数派であるユダヤ人の運命は、当時の大多数のドイツ人にとってさほど大きな問題ではなかった」(p.290)。そればかりか「ユダヤ人迫害、とくにユダヤ人財産の「アーリア化」から何らかの実利を得ていた」(p.291)のが、消極的支持の理由だった。
 第七章では、ユダヤ人の東方追放政策が、独ソ戦の敗退によってうまくいかなかった結果、ゲットーへの強制移住から絶滅政策へと切り替わっていったことが述べられている。しかし、確かに強制収容所におけるホロコーストはナチ・ドイツのユダヤ人政策における「最終解決」であるとはいえ、その可能性は当初から胚胎していたと思われる。『わが闘争』でヒトラーは、自身の優生学的思想を次のように述べている。

 民族主義国家は、人種を一般生活の中心に据えなければならない。それは、人種の純粋保持に努めなければならない。それは、子どもこそ最も貴重な民族の財だと宣言しなければならない。それは、ただ健康な者だけが子どもをつくるよう配慮しなければならない。もし自身に病気や欠陥がある場合、子どもをつくるのはただの恥辱であり、これを諦めることこそが栄誉である。反対に、健康な子どもを国民に差し出さないことは非難されるべきである。国家はそこで、千年続く未来の守護者として振る舞わなければならない。その未来を前にすれば、個人の願望も利己心も取るに足らないものでしかなく、犠牲にされなければならない。(中略)身体的にも精神的にも不健康で、価値なき者は、その苦悩を自分の子どもの身体に伝えてはならないのだ。(p.301-2)

 従って迫害されたのはユダヤ人だけでなく、民族共同体に不利益をもたらすとされた不治の患者・障害者・ロマ・同性愛者・その他「反社会的分子」とみなされた犯罪者や社会秩序に適合できない多くの人々だった。NHKのETV特集「それはホロコーストの "リハーサル" だった」では、例えばパーキンソン病の老人もガス室で殺されたことが明らかにされている。

 安楽死殺害政策で培われた殺人技術は、スタッフの「心構え」も含めてホロコーストの現場へと引き継がれていった。
 こうして、ヒトラーが望み、ドイツの人種衛生学者(優生学者)が求めた「健全な人種共同体」のヴィジョンは、ヒトラー政権のもとで強制断種政策をもたらし、やがて戦争が始まると安楽死殺害政策となってその本性を現した。そのあげく、未曽有の集団殺害=ナチ・ジェノサイドへの扉を開いたのである。(p.309)

 それは国民を、生きるべき命とそうでない命に選別することを意味していた。

 学校、看護学校、病院、役所など公共の場で、「人の価値には生来の差があること」が事実として教えられ、「劣等種との交配は高等種の価値の低下をもたらすこと」「劣等種は増殖能力が高等種の何倍も大きいため、隔離しなければならないこと」などが周知徹底された。ヴァイマル共和国時代の自由主義的で 人文主義的な教育理念は完全に葬り去られ、逆に重度の心身障害者や「反社会的分子」への介護・福祉は公の幸福と利益に反するものと教え込まれ、彼らに憐憫の情を抱くことさえ戒められた。(p.304)

 (6)
 ヒトラーとナチ・ドイツは半ば神話的存在であり、その事跡の再検証さえも、ともすれば過大評価に繋がる危険性がある。繰り返しになるが、本書は複雑な歴史的経緯を極力簡明に述べている。本書から得た着眼点としては
・組織としての合目的性ではなく、一人のカリスマの権力維持を目的とした組織の在り方の問題点。
・宣伝とプロパガンダの差異。プロパガンダは、権力による捏造や言論封殺を伴って効果的に行われる。
・暴虐を見過ごし、消極的に支持した多くの人々がいた。彼らは大きな利益のためなら、少数派の人権が侵害されても構わないと考えた。
・国民に支持された理由とされる“功績”なるものも、歴史的に再検証する必要がある。
・優生思想に基づく国民の選別は、最終的に大虐殺をもたらす。
などが挙げられる。
 ヒトラーは「巨大な大衆の受容能力は非常に限られており、理解する力も弱いが、忘れる力は大きい」(p.75-6)と述べている。だからこそ、歴史的忘却に抗するために、このような啓発書は大きな意味があるだろう。
 その上で、あえて一時代を越えて、現代と重ね合わせてみるならば、権力の過大な一極集中・言論規制とプロパガンダの流布・華々しい外交成果の強調と内政の悪化・レイシズムの横行・生活保護や福祉介護の軽視と非難、など類似する状況に気付く。これらの状況を、自分には関係がないと見過ごすならば、ナチ時代と同様の未来が訪れるだろう。