差別に対する中野重治の感想

  連休の22日には東京で「差別撤廃東京大行進」が行われた。

  ヘイトスピーチ(憎悪表現)をはじめ、人種、国籍などあらゆる差別に反対するデモ「差別撤廃 東京大行進」が22日、東京・新宿で開かれた。約2000人が「差別をやめよう 一緒に生きよう」と声を上げながら、JR新宿駅周辺や新大久保など約4キロを練り歩いた。

  ヘイトスピーチデモに対し、抗議活動を続けてきた市民有志が企画。50年前に故キング牧師が「私には夢がある」と演説したワシントン大行進を意識し、人種差別撤廃条約の「誠実な履行」を日本政府に求めることを決議した。デモには性的マイノリティーや障害者たちも参加。実行委員の一人で在日韓国人3世の金展克(のぶかつ)さん(38)は「さまざまな差別を考えるきっかけとなれば」と話した。【小泉大士】

引用元
「差別撤廃:差別やめ一緒に生きよう 新宿で『東京大行進』」(『毎日新聞』2013年09月23日 東京朝刊)
http://mainichi.jp/select/news/20130923ddm041040085000c.html

  また昨日は、長崎で日中友好のため中国人墓地の掃除がなされた。

「中国人墓地を日中のボランティアが清掃 長崎」
  秋分の日の23日、中国と歴史的につながりが深い長崎市の寺では、沖縄県尖閣諸島の国有化などで日中関係が冷え込むなか、双方のボランティアの人たちが中国人墓地の清掃活動を行いました。

  長崎市にある悟真寺には、江戸時代初めの1602年に中国人墓地が設けられ、40年前から、双方の関係者やボランティアの人たちが彼岸に合わせて清掃活動を続けています。
  23日は、はじめに長崎にある中国総領事館の李文亮総領事が、「この1年の日中間の情勢はあまり芳しくないが、長崎でこのような草の根交流が続けられているのは非常にすばらしいことだ。このような活動がいつか両国関係に影響を与えることになると思う」とあいさつしました。
  そして、長崎県内に住む中国人や留学生、それに日本人の高校生などおよそ340人が墓の周りや石垣の間から伸びた草を刈っていきました。
  清掃作業に参加した中国人留学生の女性は、「一緒に掃除をすることで中国と日本の関係を仲よくできると思います」と話していました。
また、日本人の会社員の男性は、「今回初めて参加しました。日中の友好関係に少しでも貢献できればうれしいです」と話していました。

引用元
NHKニュース 9月23日 14時7分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130923/k10014737391000.html

  これらのニュースは、拝外主義的な傾向が大手を振っている最近ではほっとできるものだった。それと共に、ヘイトスピーチに関するニュースを見聞する度に思い出すのが、関東大震災朝鮮人が虐殺された過去に触れて、中野重治が日本の一般人の心情について述べた部分だ。

一般的に当時の日本で、「破戒」のなかで藤村が描いたように、ポグロームをけしかける勢力のもとで、けしかけられるのを待ちうける状態に通常の国民がおかれていた(中略)そしてこのことを、一九七二年、三年のわれわれが陰に陽に承けついでいることを私は否定できぬように思う。(「在日朝鮮人の問題にふれて」『緊急順不同』所収)

  ポグロムとは、ロシアを中心に行われたユダヤ人虐殺を指す。ここで中野は、志賀直哉「震災見舞」・今東光「青葉木菟の歎き」から、朝鮮人と間違われて殺されたり、殺されそうになったりした日本人の体験を挙げている。
  そして殺した側の、誤りに気づいた後も、「然しかう云ふ時でもなけりゃあ、人間は殺せねえと思ったから、到頭やっちゃったよ」と「笑ってゐる」若者の言葉を引いて、

  まちがいとわかっても、何にまちがえられたかといえば朝鮮人にまちがえられたというその「朝鮮人」に原罪の原罪がある。それは、上から、ほとんど固疾的に吹きこまれてきた日本帝国主義側のインフェリオリティー・コンプレクスと裏表になる。

と述べている。また別の箇所では次のようにも述べている。

  朝鮮人と間違われて殺された日本人の不運には同情しても、間違われないで、朝鮮人とわかって殺された朝鮮人の不幸はこれを頬冠りで見送るという精神(「日韓議定書以来」)

  まとめると、虐殺した側(その多くは自警団を結成した一般の人々だった)には、「朝鮮人」と「日本人」とを取り違えたことは悪いが、「朝鮮人」を虐殺すること自体は悪くない、なぜなら彼らは「朝鮮人」だから、というロジック(ともいえない固定観念)が働いている。
  そして、そのようなゆえなき差別・蔑視・憎悪を、まるで自分の自発的な感情であるかのように取り違えさせられてきたことを、「ポグロームをけしかける勢力のもとで、けしかけられるのを待ちうける状態に通常の国民がおかれていた」と表現しているのだと思う。
  ヘイトスピーチする側も、目に見えて分かりやすい蔑視の対象、つまり“敵”への憎悪を駆り立てられている。それは本来目を向けるべき様々な問題から、目を背けさせるものだ。そしてそれらを容認する限り、私達もその構造の中に組み込まれている。

  今東光は、農民文学作家・佐左木俊郎の体験談を引く。間違われて拷問に会い、危うく殺されそうになった佐左木は後に語る。

日本人という奴は、まったく自分自身に対して自信を持っていない人種ですな。僕の近所の奴等が僕の自警団員のため額や頬をすうと薄く斬られ血まみれになり、僕は彼等に日本人だということを証明して下さいと叫んでも、ニヤリと笑うだけで首を振って保証してくれる者が一人もないのですよ。男ばかりでなく親しい近所の女房どもさえ、素知らぬ振りなんです。僕はこの時ほど日本人だということが恥ずかしく厭だったことはありません。

  佐左木は、近所の人々が助けに入らなかったのは、自分も殺されると思ったからだという理由を後で聞くのだが、これについて中野は、近所の人々でさえ「確かに朝鮮人ならば殺されても然るべきものとする勢いに抗しえぬ状態にあった」とする。
  日本社会は同調圧力が強いとよく言われるが、排他的な言動が社会の主流となった場合、個々の私達はそれに抗いえるだろうか。
  東京オリンピック開催決定後、批判的な意見を持つ人や被災した人に対する攻撃的な意見をウェブ上で見るにつけ、“空気”を読まずにいることの大切さを感じる。