サイード「故国喪失についての省察」

  このエッセイは、次のように書き出される。

  故国喪失は、それについて考えると奇妙な魅力にとらわれるが、経験するとなると最悪である。人間とその人間が生まれ育った場所とのあいだに、自己とその真の故郷とのあいだに、むりやり設けられた癒しがたい亀裂。その克服されることのない根源的な悲しみ。なるほど文学や歴史には、英雄的でロマンチックで栄光に満ち、勝ち誇ってさえいる故国喪失生活の逸話が数多くふくまれるが、それら逸話たちは、気の滅入る別離の悲しみを克服せんとする苦闘そのものに他ならない。故国喪失生活のなかでは、いかなることを達成しようとも、それは絶えず相殺される――永遠にあとに残してきたものに対する喪失感によって。(p.174)

  著者が冒頭でまず述べるのは、故国喪失という状況を、文学に描かれたようなものとしてだけ見てはならないということだ。「エグザイルとは、取り返しのつかないほど世俗的で、耐えがたいほど歴史的な事件であり、特定の人間が、べつの人間たちに対して生み出したものであり、死のごとく、だが死にともなう最終的な安堵のないまま、何百万という人々を、伝統と家族と地理からなる温もりから引き離してきたのである」(p.176)。まず、具体的な故国喪失の状況(その事態をもたらした歴史的経緯も含めて)に目を向けること。「エグザイルの詩を読むことではなく」「エグザイル状態にある詩人と出会うこと」で、「エグザイルにともなう二律背反が、まさに体現され、独自の強度で耐えられているさま」を目にすることができる。そこで初めて、故国喪失にある文学者の営為が、「威厳を否認すべく」「人々に帰属意識を拒むべく」「定められた状況」に対して「威厳を付与する」ことにあるのだと理解できる。

  ナショナリズムとエグザイルの相互関係

ナショナリズムとは、特定の場所や民族や遺産に所属するという主張である。それは、言語や文化や習慣を共にする共同体によって創造された故国を肯定する。またそうすることで、それは他国からの流民を排除する。(p.178)

対立するふたつのものが、たがいに相手を支え構築する関係。あらゆるナショナリズムは、その初期段階において、疎外状況から発達する。(中略)どれも、本来の生活様式とみなされたものから引き離された――追放された――民族集団のなせるわざである。勝利したナショナリズム、目的を達成したナショナリズムは、次に、物語の形式にひとつにまとめられ、偏向した歴史を正当化する。未来はおろか過去までも、都合のいいように正当化する。すべてのナショナリズムは、建国の父をもち、疑似宗教的な基本文献をもち、所属を訴えるレトリックをもち、歴史的・地理的な指標をもち、そして公的に認可された敵と英雄をもつ。
(中略)やがて成功したナショナリズムは、真実を、もっぱら自分たちだけのためにのけておき、虚偽とか劣等性をアウトサイダーに押し付ける(p.179)

すべての生活は、出来合いの鋳型にはめられ、あらかじめ規格化された「故郷=家庭」にからめとられている。(中略)わたしたちは故郷=家庭とか言語を当然のものとして見る。それらは自然なものになる。そしてそれらを支える諸前提は気づかれることなく、ドグマや正統思想になる。
  エグザイルは知っている。世俗の偶発世界では、故郷=家庭は一時的なものであることを。境界や障壁は、馴れ親しんだ領域という安全圏にわたしたちを閉じ込めるものであったが、牢獄にもなりうるし、しばしば、理由や必然性などおかまいなしに、守りとおさねばならないものとなる。エグザイルは境界を横断する。思考と経験との壁を壊す。(p.190-191)

「強い」あるいは「完璧な」人間は、固着を拒否するのではなく固着をくぐりぬけることで、独立した超然とした姿勢を獲得できるのである。エグザイル状態は、エグザイルみずからの生まれ故郷に対する愛着と絆の存在の上に成立している。あらゆるエグザイルにあてはまること、それは、故郷や故郷愛が失われたということではなく、ただ両者のなかに喪失が存在するということなのだ。
  経験を、あたかもいままさにそれが消滅するかのように見ること、現実に経験を根づかせるものは何か。経験をどれだけ救えるのか。どれを放棄するのか。独立と超然的姿勢を達成した者だけが、また、みずからの故郷がいくら「すばらしい」としても、その「すばらしさ」がもはや回復不可能になっている環境のなかにいる者だけが、こうした問いに答えることができる(そのような人物は幻想やドグマが提供する代替物から満足感を引き出すのは不可能だと知っている)。(p.192)

ほとんどの人間は原則として、ひとつの文化、ひとつの環境、ひとつの故郷しか意識していない。エグザイルは少なくともふたつのものを意識する。そしてこのヴィジョンの複数性から生まれるのが、同時存在という次元に対する意識――音楽から用語を借りるなら――対位法的意識なのだ。
  エグザイルにとって、新しい環境における生活習慣や表現や活動は、べつの環境に置き去りにしてきたものの記憶を背景として生ずる。したがって新しい環境と古い環境はともに、生々しく、現実的で、対位法的に同時に生起する。この種の把握法には独自の喜びがともなう。(p.192-193)

エグザイルは「冬の精神」である。このなかでは夏や秋の情緒は、近づく春の気配ともども、すぐ近くに感じられるのだが、しかし手に入らない。(p.193)

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