ハンナ・アレント『人間の条件』

 難解を以て鳴るハンナ・アレントの主著。現在ではドイツ語版に基づく『活動的生』も翻訳されており、先に出された英語版に著者自身が手を加えただけあって、かなり表現が分かりやすくなっているらしいが、今回は従来のちくま学芸文庫版による。

活動的生

活動的生

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 本書では人間の基本的行為として〈活動〉・〈仕事〉・〈労働〉の3つが挙げられている。後に筆者は、訳者に対して「自分がとくにどの「活動力」を高く評価しているということではない」と語ったそうだが、現代世界を考察する上で最も重視しているのが〈活動〉であるのは明らかである。
 古代ギリシアのポリスで実現されたような〈活動〉を基本とした生き方は、〈仕事〉に取って替わられ、さらに現代では〈労働〉が価値の中心となっているというのが、本書全体の見取り図である。

 1 〈労働〉と〈仕事〉
 〈労働〉は、生物学的・自然的な存在である人間を日々維持するための行為である。食物の生産・繁殖(再生産)などがそれに当たる。ゆえに〈労働〉の産物は、生命維持活動のために絶えず消費されねばならず、後に残ることがない。言いかえれば〈労働〉は、自然の終わりない循環過程の一部をなす。

 〈仕事〉は、人工の物を作り上げる人間固有の行為である。〈労働〉と違って、〈仕事〉の産物である工作物は、作り上げられた後もこの世に留まり続ける。むしろ、この耐久性こそが〈仕事〉の特質である(椅子やテーブルは消費されるために作られるのではなく、出来るだけ長く使われることこそ望まれる)。
 そして〈仕事〉の過程は、ある目的(=終わり)に向けての一連の作業という性質を持つので、必ず始まりと終わりがある。

 しかし同時にまた〈仕事〉は、果てしない拡大過程も持つ。なぜなら人間の工作物は、それが目的であると同時に、製作が終了すると、次の〈仕事〉に向けての手段(道具)ともなるからである。つまり、あらゆる〈仕事〉の産物は、次の〈仕事〉の手段になるという意味で、最終目的となりえない。

 人間は、〈工作人〉である限り、手段化を行なう。そしてこの手段化は、すべてのものが手段に堕し、それに固有の独立した価値を失うことを意味する。したがって、最後には、製作の対象物だけでなく、明らかに人間の助けなしに生成する、人間世界から独立した存在である「地球一般とすべての自然力」も、「仕事から生じる物化を提示しないゆえに価値を」う。(p.249-51)

 世界と地球全体が手段化され、いっさいの所与が際限なく無価値なものとなり、すべての目的が手段に転化され、ただ人間そのものが万物の支配者や主人になったときによってのみ止まる増大する無意味性のこの過程――これは製作過程から直接生じるものではない。なぜなら、製作の過程から見ると、完成された生産物は目的自体であり、それ自身の存在をもつ耐久性のある独立した実体だからである。(中略)しかし、製作は主として使用対象物を製作する。その限りで、完成された生産物は、ふたたび手段となる。(中略)その限りで、本来、生産的で限定された政策の手段性は、存在する一切のものの無制限の手段化に転化するのである。(p.250-1)

 2 〈仕事〉の変質
 さらに近代の始まりに当たり、〈仕事〉(もはや近代科学と言いかえた方がよい)は、人間の知覚を大きく変える。
 かつて人間の知とは、外部世界にある真理へ、「観照」によって到達することだと考えられていた。ギリシア哲学では、「観照」は外部世界に対する「驚き」という忘我状態であり、また後に超越的世界に存在する普遍的イデアの認識だと考えられるようになった。
 いずれにせよ、真理は人間の外側にあり、そこに到達するために人間は、行動を止めて「観照」という静止状態を保たなければならなかったのである。この考え方は後のキリスト教世界まで引き継がれた。

 観照は、存在の奇蹟にたいするあの衝撃的な「驚き」こそすべての哲学の始まりであるという、アリストテレスが引用しているプラトンの有名な主張と明らかに一貫して結びついている。(中略)「観照」というのは「驚き」の別の表現にすぎない。哲学者が最終的に到達する真理の観照は、彼が最初に抱いた、哲学的に洗練された言葉のない驚きだからである。(p.474)

 職人は、対象物を作るとき基準とすべきモデルの形を内部の眼に思い浮かべる。プラトンによれば、このモデルは、職人の技術によってただ模倣されるだけで、創造されるものではなく、人間精神が生みだすものではなく、かえって人間精神に与えられるものである。そのようなものとしてのこのモデルは、一定の永続性と卓越性をもっているが、この永続性と卓越性は、それが人間の手の仕事によって物化されるとき、現実化されるのではなく逆に損なわれる。つまり仕事は、単なる観照の対象となっている限りは永遠なものとして留まっているようなあるものの卓越性を滅びやすいものとし、損なうのである。したがって、仕事と制作を導くモデルであるプラトンイデアにたいしてとるべき適切な態度は、それをあるがままにしておき、精神内部の眼に現われるがままにしておくことである。人間は仕事の能力を断念し、なにもしないでいさえすれば、そのようなイデアを眺めることができ、したがってその永遠性に加わることができる。(中略)中世キリスト教の場合のように、ある種の観照や黙思がすべての人に要求されたとき、重点はますます〈工作人〉の経験の方に傾斜した。(p.475-6)

 しかし「近代は、あらゆる種類の活動力を凌駕するこの観照の優越性に挑戦した」(p.477)。
 アレントによれば、ガリレオの発見に端を発する近代科学は、まず人間の「感覚」や「直接経験」に対する深い懐疑を呼び起こした。地動説を例に挙げるまでもなく、現実世界は人間の経験した通りのものではない、我々は自分達の感覚に欺かれているのではないか、という疑念が強まったのである。
 そして人間の手になる望遠鏡という工作物によって、近代の新しい認識が開かれたことから、真理は「観照」によって、つまり人間が手を拱いて得られるのではなく、道具や装置を用いて外部世界に積極的に働きかけることで得られるものである、という態度が認められるようになった。

 望遠鏡を使って宇宙を覗き見たことは、まったく新しい世界を切り開く段階を画し、その他の出来事の進路をも決定した。(中略)ガリレオが行ない、それ以前のだれもが行ないえなかったことは、望遠鏡を使って、宇宙の秘密が「感覚的知覚の確実さをもって」人間に認識されるようにしたことであった。つまり、彼は、以前には永遠に人間のとどかぬ、せいぜい不確かな思弁や想像力にゆだねられていたものを、地上の被造物である人間が把握でき、人間の肉体的感覚がつかまえられる範囲の中に置いたのであった。(p.415-8)

 この事実にたいする哲学の直接的な反応は、もはや歓喜ではなく、デカルト的な懐疑であった。これによって、ニーチェのいう「懐疑学派」、つまり近代哲学が創立された。(p.419)

 近代の天体物理学的世界観は、ガリレオと共に始まり、感覚はリアリティを明らかにするものではないと感覚の正しさにたいして挑戦した。その結果、私たちに一つの宇宙が残されはした。しかし、その宇宙の属性は、私たちの測定器具に現われる程度にしかわからない。(中略)いいかえると、私たちは客観的な属性の代わりに器具を見いだしているのであり、自然や宇宙の代わりに――ハイゼンベルクの言葉を借りれば――人間はただ自分自身に向きあっているのである。(p.420) 

 近代哲学の懐疑主義と科学技術の発達は深く結びつく。どちらも真理とは自然に積極的に働きかけることで得られるものであり、かつそこで見出された真理は、もはや人間の地上的感覚に合致するものではない。最終的には全て数学に還元されるような抽象的・思弁的な対象である。

 真理にしろリアリティにしろ、与えられるものではなく、いずれもそのままの姿では現われず、むしろ現象に干渉したり、現象を取り除くことによって、ようやく真の知識が得られる(p.438)

 以前観照が占めていた地位にまず引き上げられたのは、〈工作人〉の特権である製作の活動力であった。このことは、近代革命を導いたのが器具であり、したがって道具の作り手としての人間であった以上、まったく当然であった。(中略)
 もっと決定的であったのは、そもそも実験そのものに製作の要素が現われているということである。実験とは、観察さるべき現象を作り出すことであり、したがって、そもそもの最初から人間の生産的能力に依存している。知識を得るために実験を用いるということは、すでに、人間は自分自身が作るものだけを知ることができると信じていればこそである。この確信は、人間が作らなかった物についても、それらの物が生じてきた過程を突き止め、模倣すれば、それらの物について知ることができるということを意味していたのである。(中略)
 科学の歴史において重点が、あるものが「なに」であり、「なぜ」あるのかという古い問題から、それが「いかに」生じたかという新しい問題に移動したのは、このような確信の直接的結果であり、したがって、その回答はただ実験においてのみ発見できるのである。実験は、あたかも人間自身が自然の対象物を作ろうとしているかのように、自然過程を繰り返す。(中略)「われに物質を与えよ、それによって世界を作るであろう。すなわち、われに物質を与えよ。それによって世界がいかに発展したか示すであろう」。カントのこの言葉は、近代が作ることと知ることを混ぜ合わせている状態を極めて簡潔に示している。(p.464-6)

 現代の科学は、地上的・地球的な自然を対象とした単なる知ではなくなった。本書冒頭の人工衛星のエピソードが象徴するように、人間の知は、脱地上的・脱地球的な方向へと発展してきたのである。
 核分裂にせよ遺伝子操作にせよ、現代の科学は、身の回りの存在をあるがままの姿で認識するものではなくなった。むしろ、自然的過程を人間の手で再現し、その過程に介入して自然の力を自分達のために引き出すようなものとなった。それは、アレントによれば〈仕事〉という行為の変質を意味する。〈仕事〉は終わり=目的があるという点で、自然的過程の一部をなす〈労働〉と区別されてきた。しかし、現代の科学技術は自然的過程と一体化している。その意味で、〈仕事〉は終わりなき自然的過程と同一のものとなったのである。

 3 〈活動〉の意味
 ここまでから分かるように、本書の基底をなすのは、自然的過程へ消滅することへの悲観的態度である。
 「無為自然」といった言葉に表されるように、自然との一体化=善と捉えるような文化圏に生まれ育った人間にとって、この捉え方は理解しがたいものに思えるかも知れない。
 しかし、忘れてはいけないのは、アレントユダヤ人としてナチズム下のドイツから亡命し、パリで東ヨーロッパから避難してきたユダヤ人のイディッシュ語を学び、フランス敗戦後は強制収容所に入れられ、1951年にアメリカの市民権を得るまで、「二十年近くもアレントは国家の法の保護の外に置かれていた」ことだ。そこでは絶えず自己と自己の属する文化が、消滅の危機に曝されていた。彼女の思惟の根源には、常に「生存の基本的恐怖」があったのである(「訳者解説」)。

 〈活動〉は、人間の永続性が保証される唯一の行為である。本来なら他の様々な物質と同様に消滅し、流転する自然的過程の一部となるはずの人間は、ただ、他の人間との関係の中で記憶されることを通じてのみ、自分という存在の痕跡を残すことができる。
 〈活動〉の前提となるのは〈仕事〉である。前述したように〈仕事〉の産物は、自然的過程に呑み込まれない堅固さを持つ。工作物によって取り囲まれた、人間の手になる堅牢な領域を、筆者は「世界」と呼ぶ。「世界」は、自然のただなかに作られた人間の居場所である。

 世界とは、地上に打ち立てられ、地上の自然が人間の手に与えてくれる材料で作られた人工的な家であり、それは、消費される物からできているのではなく、使用される物からできている。自然と地球が一般的に人間の生命の条件を成しているとするならば、世界の世界の物は、この特殊に人間的な生命が地上において安らぐための条件を成している。
 〈労働する動物〉の眼を通して見た自然は、すべての「よい物」の偉大な供給者である。(中略)しかし、世界の建設者である〈工作人〉の眼から見ると、同じ自然も「それだけではほとんど価値のない材料しか与えてくれぬ」ものであり、その材料の全価値は、それに加えられる仕事にある。〈労働する動物〉は、物を自然の手から受け取り、それを消費することなしには、そして自らを成長と衰退の自然過程から守ることなしには、生き残ることができない。他方、物は、その耐久性によって使用に適合し、そのほかならぬ永続性によって生命と直接的な対象をなす世界の樹立に適合する。そしてそのような物に取り囲まれた安らぎがなければ、この生命もけっして人間的ではないであろう。(p.197)

 しかし「世界」の永続性だけでは、十分に人間的な生であるとは言えない。「世界」という人工的環境で営まれるのが〈活動〉である。
 〈活動〉の条件は、「多種多様な人びと」が共にいるという人間の多数性である。ここで人間は、常に他の人間に対して他者であり(他者性)、それぞれに違う性質を持つ(異質性)。従って、“他とは異なるこの私”という自己の唯一性は、多種多様な人々のただ中にいるという多様性によって支えられている。そして自己の唯一性は、言論と公的活動、つまり人々の間で演じられた〈活動〉によって徴付けられる。
 そしてもう一つ重要なのは、終わりなき自然的過程に対して、〈活動〉は始まりと終わりをもたらすことである。「世界」は恒久的なものとして永続するが、個人はそこに参入し、死と共に出ていく。反復からなる自然の中で、人間は〈活動〉によって自己の一回的な生を全うするのである。 

 言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界の中に挿入する。(中略)「活動する」というのは、最も一般的には、「創始する」、「始める」という意味である。(中略)人間は、その誕生によって、「始まり」、新参者、創始者となるがゆえに、創始を引き受け、活動へと促される。(中略)すでに起こった事にたいしては期待できないようななにか新しいことが起こるというのが、「始まり」の本性である。この人を驚かす意外性という性格は、どんな「始まり」にも、どんな始原にもそなわっている。(中略)
 したがって、新しいことは、常に奇蹟の様相を帯びる。そこで、人間が活動する能力を持つという事実は、本来は予想できないことも、人間には期待できるということ、つまり、人間は、ほとんど不可能な事柄をなしうるということを意味する。それができるのは、やはり、人間は一人一人が唯一の存在であり、したがって、人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれるためである。(p.289)

 國分広一郎『中動態の世界』によれば、アレントには、人間の意志を全ての始まりと見做そうとする強い傾向があるという。その背景には、本書が何度も述べてきた、自然への自己消滅の恐怖があると考えられる。
 人間は、他者との間に張りめぐらされた関係の網目において、〈活動〉を通じて自己の物語を紡ぎ出す。物語には必ず始まりと終わりがあり、“私が何者であるのか?”という問いへの答えは、自己の物語が完結して初めて明らかになる。

 人間事象の領域は、人間が共生しているところではどこにも存在している人間関係の網の目から成り立っている。言論による「正体」の暴露と活動による新しい「始まり」の開始は、常に、すでに存在している網の目の中で行われる。そして言論と活動の直接的な結果も、この網の目の中で感じられるのである。言論と活動はともに、新しい過程を出発させるが、その過程は、最終的には新参者のユニークな生涯の物語として現われる。(中略)
 だれでも、活動と言論を通じて自分を人間世界の中に挿入し、それによってその生涯を始める。にもかかわらず、だれ一人として、自分自身の生涯の物語の作者あるいは生産者ではない。いいかえると、活動と言論の結果である物語は、行為者を暴露するが、この行為者は作者でも生産者でもない。言論と活動を始めた人は、たしかに、言葉の二重の意味で、すなわち活動者であり受難者であるという意味で、物語の主体であるが、物語の作者ではない。(p.298-9)

 4 「物語」の力
 現代の特徴は、人間が自己の本質を開示する〈活動〉の領域が失われたことにある。だが、この領域を現代にどのように回復したよいか、本書では積極的な提言はしていない。従って、読み終わってもペシミスティックな印象を受ける。
 しかし、文庫本の半ばである第五章の冒頭に掲げられた二つの引用は、アレントの重視した物語る力の強さを示唆しているようだ。

 どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、堪えられる。(イサク・ディネセン)

 どんな活動においても、行為者がまず最初に意図することは、自分の姿を明らかにすることである。(中略)どんな行為者でも、行為している限り、その行為に喜びを感じるのはそのためである。というのも、存在するものは、すべて、あるがままの自分を望むからである。(中略)活動が隠された自己を明らかにしないなら、いかなるものも活動しないだろう。(ダンテ)

 古代ギリシアのポリスとは異なる形で、「物語」の共有される「網の目」を作り上げること。そのモデルは、それぞれの社会を生きる私達の課題として委ねられているのだろう。

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