通勤途中の坂道で、珍しい鳥の鳴き声を聞いた。今まで聞いたこともないような張のある声で、残念ながら種類までは分からなかったが、季節の移り変わりを感じた。帰宅後、歳時記を繰ってみたが、やはり分からない。「早春に平地で囀り始め、気温の上昇にともない冷涼な地帯に移動する」とあるので、鴬かも知れない。俳句を作っていなければ、鳥の種類まで気に掛かることはなかっただろう。
うぐひすのケキョに力をつかふなり(辻桃子)
それと共に、人間が意識しようと意識していまいと、自然の営みは刻々と進みつつあるのだと感じる。そこには、人間の意志を越えた、文字通りの自然(じねん)の力、「おのづからなりゆくいきおひ」を思わせるものがある。
私達は自然を様々に意識し意味化しているが、自然が私達人間をどう考えているのかは、知る術がない。自然は人間のように語らないからだ。これはよく考えれば恐ろしいことである。
個人は、自分を主観的に測るだけでなく、他人の視点も折り合わせて、自己イメージを微調整しながら自分を把握する。主観だけでは独断に陥るからである。国家などの集団も同様だ。しかし人間に対しては、外からの視線がない。他の生物や自然界にとって人間はどのような存在なのか、人間は自分で想像してみるしかないのである。そうしなければ、人間全体が独断に陥ってしまう。
そこで連想したのが鷲田清一「折々のことば」1046(2018/3/11)だ。
世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。(クロード・レヴィ=ストロース)
途中から世界に現れ、やがて先に消えてゆく人類には、その世界に「修復不能な損傷を惹き起すいかなる権利」もない。人類は世界の主ではない。世界の中で自分が占める位置を知るために、人類は自らの背後にもう一つの眼をもつ必要がある。その眼をフランスの民族学者は、のちに世阿弥の「離見の見」に倣い「はるかなる視線」と呼んだ。『悲しき熱帯』(川田順造訳)から。
鷲田がこの文章を選んだのは、「3・11」の傷痕を踏まえてのことだろう。「世界の中で自分が占める位置を知るため」に「もう一つの眼をもつ」とは、肥大化する人間の科学技術が、自然の中でどのような存在であるのか、客観的に見る目を持つべきだということだと考える。もちろん、自然が常にか弱い被害者であるとは限らず、人間の技術こそが自然の力の前で脆弱たりうることは言うまでもない。
私達人間の営みは、余りに人間中心の判断に偏りすぎている、というのが鷲田の伝えようとしたことではないか。
引用されたレヴィ=ストロースの文章は、この脱人間中心主義を徹底している。
世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。制度、風俗、慣習など、それらの目録を作り、それらを理解すべく私が自分の人生を過ごして来たものは、一つの創造の束の間の開花であり、それらのものは、この創造との関係において人類がそこで自分の役割を演じることを可能にするという意味を除いては、恐らく何の意味ももってはいない。(中略)人間の精神が創り出したものについて言えば、それらの意味は、人間精神との関わりにおいてしか存在せず、従って人間の精神が姿を消すと同時に無秩序のうちに溶け込んでしまうであろう。
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