「社会性」についてのメモ

  古い読書記録から。

ひとは異なった共同体に同時に住むことは大いにあり得る。であるとすれば、ひとの主体的立場は単一に決定されているのではなく、多重に決定されているはずである。ひとは、娘であり、母であり、隣人であり、買い手であり、あるいは教師であるなど、数多くの間柄によって指定された主体的立場を占める。

  個人は、一つの立場だけに止まるのでなく、色々な人間関係の中で、複数の顔を持っている、という指摘。言いかえれば、一人の人間は複数の関係の重なり合う結び目のようなものだ。

信頼は新しい社会関係を創造する契機とは定義されておらず、むしろ逆に、間柄に常に伴っており、欠如した時にのみ知り得る事態とされている。(中略)つまり、間柄においてひとは不安をもたず、他人への信頼にすっかり漬っていることになる。和辻の信頼関係から慎重に除去されているのは信頼のもつ投機的・冒険的な側面である

  和辻哲郎の「人間学」を批判する中で、筆者は、和辻が既存の人間関係に基づく相互了解(信頼)しか見ようとしていないことを指摘する。それに対して、現実の人間関係は、しばしば信頼が予め存在しないところに、「関係」そのものを架橋することから始められる。

信頼は間柄の相互了解を保証する体系性に向けられ、個別的人格には向けられない。ひとを信頼するのではなく、会社や国家などの人倫的全体性を信頼することになるのである。さらに、原理的に既存の社会関係の網目では非決定な立場にある者には信頼を及ぼすことは不可能であるとされる。したがって、全体性の限定的配分に統合され得ない意味での社会性を和辻の信頼の概念は許容しない(中略)もし社会性が自己と他者の間の対称的相互性が不可能な事実を必ず含むとしたら、こうした意味での社会性は和辻の考えた信頼とは相容れないものである

  和辻の「人間」学の含む欠陥が、どのような結論を招くことになるか、の指摘。既存の関係性の網目(「世間」と呼び変えてもよいか)に掬い取られない関係(これを筆者は社会性と呼ぶ)を、和辻の理論は対象にできない。

和辻の人間学に徹底的に欠如しているのは社会性への配慮なのである。常識の言葉としても社会性は間柄以上のものを指示している。例えば親子・子弟などの既存の間柄のなかだけでうまくやっていけるひとを私達は社会性のあるひとと呼ばない。社会性はそのような間柄に保証された「信頼」から離れ、「社会に出て」「赤の他人」との間に新しい社会関係を作る能力としても了解されているのではないだろうか。(中略)和辻の好きな性愛の例で言えば、一人の男と一人の女が出会い無数の試行錯誤を経て婚姻という永続的な間柄に至るわけであるが、その過程で無数の不安に苛まれる瞬間をもち、しばしば関係の解消が帰結する。そこでは信頼はひとつの覚悟であり、裏切りの可能性と常に裏腹の関係にある。「信頼は人間関係の上に立っている」という和辻の主張は、あらゆる社会関係に織り込まれた投機を必要とする非決定性を徹底的に見まいとする主張である。

「他者の超越」としてあらゆる間柄のなかに非決定性は織り込まれているのだ。だから間柄における非決定性の抑圧は実は他者の他者性の拒絶、そして他者への尊敬の拒絶、つまる所、社会性そのものの拒絶を引き起こす

  私も他者も、「主語=主体に同一化できない」「主語=主体に対する余剰を必ずもっている」。社会性とは、そのような「余剰」(既存の人間関係における役割=間柄に収まらない部分)を尊重すること。

日本思想という問題――翻訳と主体 (岩波人文書セレクション)

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