断続的な自己

  宇野邦一『反歴史論』は、第1章「反歴史との対話」で小林秀雄レヴィ・ストロース柳田国男などの客観的歴史に疑義を呈した人々の系譜を取り上げている。さらに第2章「無意識・映画・存在論」、第3章「歴史のカタストロフ」ではハイデガーバタイユフロイトレヴィナスら、歴史を形成する主体概念そのものを乗り越えようとした思想家達を論じている。難解だが、それぞれの思想のエッセンスが筆者の言葉で置き換えられていて参考になった。

  自我は、あらかじめ人称や同一性なのではなく、「自同性」として構成され、たえず再構成されなければならない。もちろんそのような構成のいちいちの過程で、私は世界と直面し、すでに様々な他者の多様な他者性と対面しながら、様々な関係のひろがりの中で、「自同性」を、自己という関係として構成するのである。自己は、自己を上回る複数性の中で構成されるからである。

歴史の出来事も、歴史の言説も、いったい生におけるどんな主体の過程なのか(中略)出来事を把握し、出来事を記述する人間が、そこで何を実現し、結合し、形成しているのか(中略)どのように時間を操作し、時間の中で自己と他者をどのように形成し結合しているのか

反歴史論 (講談社学術文庫)

反歴史論 (講談社学術文庫)

  ここから連想したのは、発達心理学者J.ピアジェの「対象の永続性」や「保存」という考え方だった。