戦争前夜に―中野重治「司書の死」

子供に甘かったマルクスが、ふたりの娘から冗談に問われて答えていることがある。「あなたの好きな仕事はなんですか。」「本食い虫になることだ。」こう答えている。しかし彼は、「あなたの好きな徳行は?」と問われて、「質朴だ。」と答えている。「あなたの好きな男性の徳行は?」と問われて、「強さだ。」と答えている。「あなたの好きな女性の徳行は?」と問われて、「弱さだ。」と答えている。「あなたの主な特質は?」と問われて、「ひたむきだ。」「あなたは何を幸福だとお思いになります。」と問われて、「たたかうことだ。」「不幸は?」「屈従だ。」「いちばん大目に見る悪徳は何ですか。」「軽信だ。」「いちばんきらいな悪徳は?」「卑屈だ。」「ヒーローは?」「スパルタクスケプラーだ。」「花は?」「月桂樹。」「色は?」「赤。」「名まえは?」「おまえたち、ラウラとイェンニー。」「好きなモットーは?」「すべてを疑えだ。」と答えている。

  「司書の死」(『新日本文学』1954・8)は、語り手「おれ」の旧制高等学校時代の同級生の回想が主な内容である。同級生の名前は、高木武夫という。高校時代に彼とは文学仲間で、やがて同じ東京の大学のドイツ文学科へ進んだが、次第に疎遠になった。卒業後、高木は図書館員になった。
  小説は、語り手の図書館に対する印象へと移る。「もともとおれは、図書館というものにあまり縁がない」。それでも折に触れて、様々な図書館通いを続けるようになった。そこで出会った図書館員からは、いずれも「物欲のうすい人たち」で「出世ということが概念として頭にない」「なんとなくおとなしい人びと」という印象を受ける。

  おとなしい人びと、反抗的でない人びと、破壊的でない人びと、善良で、どこかで人間の良さを信じてる人びと、しかし消極的なところのある人びと、こういう人びとが図書館にいるらしかった。考えてみると、高木武夫がその一人でなくはなかった。

  その高木は、敗戦後、アメリカの占領政策に伴う図書館組織の再編成のため、アメリカへ派遣される。その再編計画は、単なる組織の機能化ではなく、明らかな方向性を持ったものだった。

  いっそう性格吟味のしにくいことが、人目につく変化のうしろで、人目から隠して運ばれていた。帝国図書館からきた国立図書館の廃止、国立国会図書館の創立、国会図書館への主な私立図書館の吸収、国会図書館への国立図書館支部としての吸収といったことが隠密のうちに運ばれた。(中略)日本の国立図書館アメリカ政府の調査網、宣伝網のなかへ、親近関係で組みこまれることになった。言い過ぎを避ければ、私立の大図書館を含んで、日本の国立図書館網が―それは「網」としてまだ出来ていなかったが―日本をアメリカのための反アジア軍事基地にしようとするアメリカ政府の方へ、それ自身の方向で一歩踏みだしたのだった。

  ここで語られていた事情が、どこまで事実としてあったのか、まだ裏付けは取れていない。やがて高木は、何の理由からか帰国を急ぎ始める。だがそれと同時に、軍人や政府関係者以外、特に外国人の渡航が厳しくなる。やっと乗り込んだ貨物船の中で、高木は発病する。この貨物船は軍用だった。手術を受けた彼は、横浜へ家族を迎えに来させるよう無電を打ってくれと依頼するが、「いつ横浜へ着くかは、いまどこを走っているかとともに軍の機密なのだ」と断られる。
  衰弱した高木は、家族が来るまで波止場で放置されていたために、死亡する。妻は、その日の新聞で高木の死の背景にあったものを知る。

「二十五日午前四時ごろ、南北鮮境界線である三十八度線にそった春川、甕津、開城付近と東部海岸地区などで、北鮮軍と韓国軍とのあいだに戦闘が開始された。」(中略)彼女の頭のなかで、役所でのひどい口どめ、あれやこれやからの無電が許されなかったことの想像とこれとが結びついた。それならば、普通貨物船を軍用船に仕立てて、大急ぎで秘密に日本へ送りつけた事情が、その事情でわきかえっているアメリカのなかで、武夫にそれだけびんびんひびいていたのだったろう。それで武夫が、消極的なあののんきものに似ず、貨物船にまで取りついたのだったかと思われて彼女は足ずりした。

  戦争は「機密」が当たり前の社会を作る。あるいは「機密」が当たり前の社会が、戦争を可能にする。レール上の小石のように「機密」を守る大きな動きに弾き飛ばされるのは、いつも個人だ。大言壮語を弄する愛国者気取りの人々は、自分が卑小な個人であることを忘れている。
  本を好み、実人生にはささやかな形でしか関わろうとしなかった高木を、積極的な行動に駆り立てたのは、迫り来る戦争の足音だった。それを語る「おれ」の口調は、哀悼と憤りの気持ちに満ちている。しかし何もできぬまま、高木の四年目の命日を迎えた語り手の思い出すのが、冒頭のマルクスの言葉である。その後こう続けている。

おれも本食い虫になるのが好きだ。比べものにはならぬが。高木もそうだったろう。しかし、それは、「質朴」、「強さ」、「たたかうこと」、「ひたむき」に結びついていなければならぬのだ。

  真っ当な生活感覚や良識を持つ人々は、声高に意見を主張しない。なぜなら、声を荒げたり、大声で自説を押し通そうとすること自体が、良識に反するからだ。繊細さ、良識、身についた知識、日常感覚などを保持しながら、現在の状況に抗うにはどうしたらよいのだろうか。中野の短編は、そんなことを問いかけているような気がする。

五勺の酒・萩のもんかきや (講談社文芸文庫)

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