酒井直樹・西谷修『増補〈世界史〉の解体』
人文学(ヒューマニティーズ)と人類学(アントロポロジー)の違い
西谷 「フマニタス」というのは「人間性」とも訳されますが、いわゆる「人間」を指す言葉なわけで、それに対して「アントロポロス」と呼ばれるのはその「フマニタス」によって発見された存在、いわば「同類異種」で、ほとんど動物と同じように、生態学的なというか、自然誌的、博物学的な研究の対象になるわけですね。「フマニタス」という語が「人間性」つまり「人間の本質」とか「人間の本来のあり方」を示すと同時に「人文学」をも意味するというのは、それが知を生み出す主体だとみなされているからです。つまり「フマニタス」というのは「知る自己」とその自己認識を意味している、あるいは「知としての人間」を意味しているというふうに考えられますが、その知の一方的な対象として発見されるのが「アントロポロス」だということになります。それは「人間」の知の対象でしかない。「アントロポロス」は「フマニタス」を知の対象にはしないですから。それがこの二つの決定的な違いですね。もちろんその場合、「フマニタス」つまり「人間」というのは、ヨーロッパ的人間なわけです。だから「フマニタス」(ヒューマニティ)、要するに人文科学というのは、これは当然ながらヨーロッパ研究ないしヨーロッパ的人間の研究なんです。そして「アントロポロジー」というと、これは「アジア・アフリカ、ラテンアメリカ研究になりますね。
アメリカの幻想
酒井 世界中のいわばマイノリティにとって「アメリカ」が一種「夢の国」であり、そして時刻で失敗した場合には、別の選択肢として常に「アメリカ」が表象されてくるというメカニズムがある(中略)一方では非常に暴力的な帝国主義なり軍事力を持った合衆国の存在が東アジアにあって、他方ではそういった大衆文化を通じて出てきた理想化されたある種の包容力のある「オープンな国民国家としてのアメリカ」というイメージがあって、そのなかで日本の国民主義は、その軍事的な抑圧的なアメリカのナショナリズムに対しては反発するけれども、オープンで、自信をもって「私は国を愛しています」と言えるようなナショナリズムにどこかで憧れているところがある。(中略)現在、自己充足的な自律的な主権国家としては行動できる、という前提に基づいて政策や国民的合意を作り出しているのは、アメリカ合衆国のみでしょう。(中略)いまなお一元的な想定が頑固に生きていて、一元的な国家への願望が強固に残ってしまっている(中略)それが今度は東アジアにおいて、アメリカに対応して、日本もそういう形の国民国家の整合的な形成ができるという幻想を呼び起こす。
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