中島敦と軍歌

 辺見庸『完全版 1★9★3★7』上を読んでいると、最初の方に「海ゆかば」の話が出てくる。筆者はその旋律に「なんかただごとではない空気の重いうねりと震え」を感じ、「ニッポンジンのからだに無意識に生理的に通底する、不安で怖ろしい、異議申し立てのすべてを非論理的に無効にしてしまう」「天皇ファシズムの生理」を体現したものとして、「君が代」と「海ゆかば」を挙げている。もちろん重要なのは、「あれらのメロディに感応するように、体内でびみょうに蠕動するものがないとはいえない」と、それに呼応してしまう自分の感覚を摘出している点である。

 この個所から連想した小説がある。中島敦が第一高校時代に書いた習作「蕨・竹・老人」(『交友会雑誌』1929・6)で、主人公が口ずさむともなく軍歌「勇敢なる水兵」を歌ってしまう場面だ。

 晴れた或真昼間に、いつもの様に篠を一本折つて藪の中で暴れて居ますと、何処からか楽隊の音が聞こえて来るのでした。 
 「煙も見えず、雲もなく」歌は疑ひもなくその節なのです。一九一〇年迄に生れた日本人なら誰でも知つて居るに違ひない、あの軍国主義的の唱歌なのです。
 「はてな。」と思つて見ると、成程、渓一つ距てた下の街道を、南の方から小さな楽隊が上つて来るのでした。
(中略)
 「煙も見えず雲もなく……鏡の如き黄海は……」。
 私は、竹薮の中に又首を引込めると、ねころがつて、細い葉をすかしてチカチカ光る空を見上げながら、子供の様な気持になつてその音を聞いて居ました。………………と、これは又、何と馬鹿々々しいことに、私は何時の間にかその歌を小さな声で、口の中に繰りかへして居たのです。此の馬鹿げた無意味な軍国主義的の唱歌を………………。

 曲はYou Tubeで聞くことができる。ダークダックスの演奏で、タッタタッタと軽快なリズムが確かに耳に残る。

 川端康成伊豆の踊子」(1927)の影響が色濃いこの短編で、恐らく同様に学生である主人公「私」は、この軍歌にさほどの思い入れを持っていない。「馬鹿げた無意味な軍国主義的の唱歌」とあるように、冷めた受け取り方をしているようだ。
 日清戦争の逸話に基づく「勇敢なる水兵」は、佐々木信綱作詞・奥好義作曲で、『大捷軍歌 第三編』(1895)に所収されており、小学校・高等小学校の唱歌教材だった。この『大捷軍歌』について、田村虎蔵『唱歌科教授法』(1908)によれば「此軍歌の我国小学校児童に歓迎せられたことは、是亦空前の盛況であつた。この影響は実に二十九、三十年にまで亘つて、一時小学校の唱歌教材は、この軍歌を以て充たされ、他の唱歌教材は、殆んど顧ざる迄に陥つて仕舞つた」とあり、軍歌は人気の教材だったらしい。その要因を田村はこう分析している。

その曲節を吟味して見ると、米国の戦闘歌(War Songs.)と称する旋律に擬したるが如く、彼の附点八分音符と十六分音符との連合で、拍子は概ね四分の二拍子、従来嘗て見ざりし程の活快勇壮なる曲節で、中には現今とても賞揚せる旋律。例へば「勇敢なる水兵」―「水雷艇」―「坂元少佐」等の歌曲もあつたのであるから、全国の小学児童か、靡然としてこの軍歌を唱謡するに至つたのであると考へる。(p.57)

(※この資料は国会図書館デジタルコレクションで公開されているhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811977
 この「軍歌を唱謡」した「全国の小学児童」の一人がこの作の主人公であり、もしかしたら作者・中島自身だったのだろう。後の「かめれおん日記」や「狼疾記」で、ちぐはぐな身体感覚を記す中島だが、ここでも「馬鹿げた無意味な」ものと距離を取っているはずの軍歌を、つい口ずさんでしまう場面には、自分の身体に染み込んだものへの違和感が暗示されているのかもしれない。

(2018年11月25日)追記
 奇しくも、小野十三郎が同じ軍歌について書いた詩「野の楽隊」を見つけた。小野は言うまでもなく「短歌的抒情」を「奴隷の韻律」として厳しく排した詩人である。金時鐘がその影響を受けたことはよく知られているし、中島も一時期に「和歌でない歌」を憑かれたように詠んだ後、ぷっつりと歌作を止めている。ここには短歌に象徴される日本的抒情の呪縛から脱しようと試みる、思索の系譜があるように感じられる。
 小野の作品の全文と、それに付された安水稔和の鑑賞文を引用する。

  野の楽隊

ケームリモミヱズ…………クモモナク
太鼓ばかり嫌にひびかせて
四五人の赤い楽隊が街道をゆく
はしやいだ小供や犬なんかもゐく
街道に沿ふた細いあぜみちでは
カーキの軍服をてらてらさした在郷軍人
口笛で合奏しながら歩いてゐる
少し離れた丘の草路をふんでゐくのは
ぼくだ
くすくす笑つてゐるぼくだ
あの楽隊を聞いてゐると
なんだかなまあたゝかな情熱が
胸もとにぞくぞくはひあがつてきて
くすぐつたくなる
ぼくはいよいよ笑ひだした
ぼくは自分をどなりつけた
しかしぼくの歩調は
あの太鼓の歌に合つてゐる
いくら乱さうと乱さうとしても
いくらもがいてももがいても太鼓につりこまれる
ぼくはついにたまらなくなつて兎のやうに
黄色い草むらにもぐりこんで
長い耳をたゝんだ
そしてまたこんどは
ゲラゲラと笑ひを吐き出した。

「野の楽隊」は含むところ大きい秀作である。音楽をきいていて知らずしらず体で調子をとっているなど、日常よく経験することだが、この作品は「音楽」ないしは「歌」の発揮する気持の悪くなるほど圧倒的な力を見事に捕えている。いくらもがいても「ぼく」は「音楽」につりこまれてしまう。だから「ぼく」はゲラゲラと笑いを吐きだして対抗するしかない。この笑いは自嘲であろうか。自嘲でもあろうが、より、恐怖であり、憎悪でもあるだろう。この憎悪こそ後年の小野をして短歌的抒情の否定を叫ばしめた源である。