星野智幸「文学に政治を持ち込め!」(『図書新聞』)

  小説家・星野智幸青山ブックセンターで行ったトークイベントの記事が『図書新聞』2016年12月10日に掲載されていた。過去の読書記録を見ると、2006年に『ロンリー・ハーツ・キラー』読んでいた。当時まとめた作品の概要と感想を、多少改めて掲載する。
  内容は第一部「静かの海」、第二部「心中時代」、第三部「昇天峠」の三部構成。
  特徴は、各章ごとに語り手が交代する点である。第一部は映画学校の生徒・井上がネット上にアップロードした手記という体裁であり、同級生・いろはの恋人・ミコトと「心中」するまでを語る。第二部は恋人を失ったいろはが、井上の手記に対する付記という体裁でその後の顛末を語り、第三部はいろはの友人・モクレンの日記という形式で「雪解け」の時代が描かれる。
  全体を貫くのは「オカミ」(天皇)の存在であり、第一部では「若オカミ」の急死と共に急速に広がっていった脱力化現象「カミ隠し」が大きな社会背景となっている。三島由紀夫『豊穣の海』『英霊の声』『憂国』や大江健三郎『セヴンティーン』など、先行する「天皇小説」(渡辺直己)を想起させるモチーフが用いられている。
  また、単純に語り手が交代するだけでなく、この小説は多声的な構造を持っている。各章はいずれも他の章を読んだ上での応答として書かれており、事実の直接的再現という通常の小説の形式を取っていない。さらに、各章でマスコミ言語のような、匿名の他者の言語・反応が引用されることで、視点をいくつも相対化する契機を内包している。

ロンリー・ハーツ・キラー (中公文庫)

ロンリー・ハーツ・キラー (中公文庫)

不敬文学論序説 (ちくま学芸文庫)

不敬文学論序説 (ちくま学芸文庫)

  最終章「今日の天皇小説」で星野作に言及している。

  星野氏が指摘するのは、「政治」がどの領域でもタブー視されている現状である。そしてその責任の一端は「文学」も担っているとする。

日本の一般社会でなんとなく政治がタブー視され、政治的なことを言ったり批判したりすると、あいつは特殊な人間で色がついている、という目で見られるのが普通になってしまったのは、また、その結果として現在の暴力的な社会情勢を止めることができない世の中になってしまったのは、文学にも責任がある

  具体的には、まず明治から大正にかけて成立した私小説の書き手達が、「政治に背を向けるように小説を書いていき、現実世界でまったく力を持てないでいる自分を文学世界で逆転させた結果、自分の体験を書けばそれが普遍となる、というような世界観でもって作品を生み出す」ようになり、文学の主流となった。
  次に、私小説に抗して社会問題に目を向けたプロレタリア文学は、「党派的なプロパガンダや宣伝としての党の主張に沿ったかたちで物語をつくってしま」い、さらに言論弾圧によって挫折し、「政治的なものに対してアレルギー」が生じた。
  第三に、60年代のあさま山荘事件が「政治的なものは危ないものだというショック」を与えた。
  その後、80年代の言語論的転回を経た日本文学は、高度に思弁的になる一方で、現実から目を逸らし、狭い閉域で繰り返される「ゲーム」のようなものになっていった。

文学上の言説批判と現実に目の前で行われている暴力が結びついていかなかった。現実の暴力に対してはいつもシニカルな態度をとり、文学のときだけそれを根源的な批判と見なす。そうなると、文学の批評性は現実に対して力を持っているものではなくなってしまうので、非常に限られた、狭い領域の中で繰り広げられるゲームみたいになってしまうわけです。

  このような現状において、改めて「文学に政治を持ち込め!」とはどういうことか。星野氏は、「政治」の特別視を考えなおそうと述べる。

「政治」とは社会の中でルールを決めていくことです。(中略)つまり、政治とは一部の人がやっている難しいことではなく、どの人の生活にも間接的にも直接的にも関わってくることなのです。日本の場合は経済の話だととたんに政治アレルギーがなくなりますが、それ以外の社会福祉や安全保障のルールを決めるとなると、すぐに他人事になってしまう。政治というと、頭の中で無意識のうちに経済分野だけ分離して考えてしまいがちですが、実際にはすべて一緒くたになって自分の生活に関わってくる日常の営みなのです。
  政治家はあくまでも生活している人たちの代理人として働くものです。なので、民主主義のもとでは代理人の政治家を通して自分たちの生活のためのルールを決めてもらうのが「政治」であり、その代理人に対していろいろとこうすべきだああすべきだと言ってもいいわけです。むしろ、それを言わないと政治がきちんと機能しなくなってしまう。

  しかし、日本社会では「政治」は日常生活と無縁のものとされた。  

だが、なぜか日本の社会は政治を「オカミ」というシステムに変えてしまった。あれは「オカミ」のすることである、というように。戦前の「オカミ」は天皇であったわけですが、天皇の代わりに政治を行う官僚や政治家なども「オカミ」の一部になっていった。
  そして民主主義になった戦後でもやはり政治は官僚や政治家といった「オカミ」がするものだという意識が強烈に残っていて、自分たちには関係ない、そこに踏み込むべきではないというタブーの感覚がずっと根強くあります。
  その中には戦前の、「オカミ」に逆らってはいけないという意識も残っている。つまり、戦後は一応自分たちのものになったはずの政治を「オカミ」に渡している状況が現在まで続いていて、自分たちの日常の領域に政治が入ってくることがなかったのだと思います。

  ここから話は『ロンリー・ハーツ・キラー』執筆の背景に及ぶ。

特にその「オカミ」の存在を感じたのは、昭和天皇崩御のときですね。(中略)天皇なんか誰も意識していなかった、一番無関心な時代だったにもかかわらず、町がとても静かになってしまって、とにかく自粛の空気が強まりました。(中略)当時は天皇など全然気にしていないのに、なぜみんなこんなに活力を失うのだろうと、すごく不思議に思った。その経験が(中略)『ロンリー・ハーツ・キラー』という小説にそのまま表れています。僕らは無意識を政治、そして「オカミ」に縛られていたんだと感じました。

  「オカミ」という言葉は、我々自身の無意識を縛っているタブー意識を表す。氏は、そういった無意識に働きかけタブーを解除するのが「文学」の役割だとする。

  文学というものはその言葉を読んでいくことによって、人の無意識に語りかける表現形態だと僕は思います。
  同じ小説でも僕はいつも「文学」と「読みもの」――一般的に言えば「純文学」と「エンターテインメント」となるかもしれません――と分けているのですが、「読みもの」は人の意識のほうに働きかけるものです。要するに、ストーリーだとか作品に込められたメッセージを読み取りながら考えていく。
  一方「文学」のほうは、もちろん「読みもの」と同じ要素も含まれていますが、それだけでなくて読み終わった後になぜか内面の感覚やものの見え方が変わっているだとか、今までなんとも思っていなかったものが妙に気になるようになってしまうといった、人の無意識に作用するものなのです。だから、文学こそがそういった無意識の中で働いているブレーキや制御を解除し得る言語だと僕は思います。

  この「文学」と「読みもの」の定義は、エンターテインメントへ敬意も払いつつ、文学固有の役割を述べたものとして腑に落ちる説明だった。文学とは「具体物を意想外に組み合わせることで言語化できないなにものかを表現すること」と、予て自分なりに考えていたので、我々を捕える意識されない不可視の構造を、現実のディティールを積み重ねることで意識化できるようにするのが「文学」の役割かと思う。

文学の役割は、こういった状況にある政治を日常の光景として描くことにあると思います。デモや選挙やニュースなどといった具体的な政治的・社会的言動が、普通の生活の一コマとして小説に描かれればいいだけです。別に政治的なもの自体をテーマとする必要はなく、たとえば恋愛小説の中だって実際の選挙が背景として書かれてもいい。食事や排泄、生や死と同じように、政治が生活の中に関われるようにすることが、まずは重要なのです