『太宰治全集8』

太宰治全集〈8〉 (ちくま文庫)

太宰治全集〈8〉 (ちくま文庫)

パンドラの匣」(『河北新報』1945・10・22〜46・1・7 単行本 河北新報社 41・6・5)/「薄明」(単行本『薄明』新紀元社 1941・11・20)/「庭」(『新小説』1946・1)/「親という二字」(『新風』1946・1)/「嘘」(『新潮』1946・2)/「貨幣」(『婦人朝日』1946・2)/「やんぬる哉」(『月刊読売』1946・3)/「十五年間」(『文化展望』1946・4)/「未帰還の友に」(『潮流』1946・5)/「苦悩の年鑑」(『新文芸』1946・6)/「チャンス」(『芸術』1946・7)/「雀」(『思潮』1946・10)/「たずねびと」(『東北文学』1946・11)/「男女同権」(『改造』1946・12)/「親友交歓」(『新潮』1946・12)/「トカトントン」(『群像』1947・1)/「メリイクリスマス」(『中央公論』1947・1)/「ヴィヨンの妻」(『展望』1947・3)/「冬の花火」(『展望』1946・6)/「春の枯葉」(『人間』1946・9)

  いよいよこの巻から、敗戦を経て戦後に向かう。「パンドラの匣」は、当初は木村庄助の日記に基づいて「雲雀の声」として1943(昭18)年頃執筆されたものだが、出版不許可となり、44年出版する直前に空襲で原版が失われ、ゲラ刷りを元に45年10月22日〜12月末まで、新聞連載小説として発表された。この経緯から分かるように、この作品の背景には、戦時下と戦後という亀裂が走っている。ひばりが喀血したことを両親に告げる場面は、玉音放送の時だったことになっているが、当初は12月8日の「大東亜戦争」開戦を告げるニュースだったと、昔、研究発表で聞いたように記憶する。確かに小説「十二月八日」と、ひばりが玉音放送を聞く場面はよく似ている。

  「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」
  しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。(「十二月八日」)

  お父さんの居間のラジオの前に坐らされて、そうして、正午、僕は天来の御声に泣いて、涙が頬を洗い流れ、不思議な光がからだに射し込み、まるで違う世界に足を踏みいれたような、或いは何だかゆらゆら大きい船にでも乗せられたような感じで、ふと気がついてみるともう、昔の僕ではなかった。(「パンドラの匣」)

  「十二月八日」には「聖霊の息吹き」というキリスト教的な表現があるが、「パンドラの匣」でも「或る日、或る時、聖霊が胸に忍び込み、涙が頬を洗い流れて」という洗礼を思わせる表現がある。まるでキリスト教の神と天皇が同一視されているかのような描写である。戦中・戦後の太宰の日本観・天皇観を考える際には、キリスト教という要素を加味して検討する必要がありそうだ。

  もう一つ、「パンドラの匣」関係で興味があるのは「十五年間」だ。この作品は東京に出て来てからの15年間を回想した内容で、なぜ随筆ではなく小説の巻に収められているのか疑問だったが、初出の『文化展望』創刊号を復刻版(不二出版)で見て納得した。


  ここではっきり「小説」の欄に掲載されている。『文化展望』は、周知のように宮崎宣久・高田康治・大西巨人・牟田口宗一郎らによって福岡の三帆書房から発行された雑誌である。皆三十代に達しない、若い世代によって刊行された総合文化誌だった(復刻版解説による)。
  創刊号の編集後記「文化展望」で、宮崎宣久は次のように書いている。

  太宰治氏は『十五年間』の中で“私は、文化と云ふ言葉に、ぞつとする。……”云々と近頃氾濫の流行語について一筆報いてゐるが、誠に最近の『文化』ばやりは怖るべきものがある。雑誌の題目をとりあげても『文化』を謳つたもの既に十指を屈する。

  「十五年間」本文の該当箇所は次の通りである。一つは「津軽」執筆時に故郷を訪ねた時の印象から。

結局、私がこの旅行で見つけたものは「津軽のつたなさ」というものであった。拙劣さである。不器用さである。文化の表現方法の無い戸惑いである。私はまた自身にもそれを感じた。けれども同時に私は、それに健康を感じた。ここから、何かしら全然あたらしい文化(私は、文化という言葉に、ぞっとする。むかしは文花と書いたようである)そんなものが、生れるのではなかろうか。愛情のあたらしい表現が生れるのではなかろうか。

  もう一つ、戦後の日本に触れた部分も関係するだろう。

日本の文化がさらにまた一つ堕落しそうな気配を見たのだ。このごろの所謂「文化人」の叫ぶ何々主義、何々主義、すべて私には、れいのサロン思想のにおいがしてならない。何食わぬ顔をして、これに便乗すれば、私も或いは「成功者」になれるのかも知れないが、田舎者の私にはてれくさくて、だめである。(中略)私たちのいま最も気がかりな事、最もうしろめたいもの、それをいまの日本の「新文化」は、素通りして走り去りそうな気がしてならない。
   私は、やはり、「文化」というものを全然知らない、頭の悪い津軽の百姓でしか無いのかも知れない。

  太宰の「文化」という言葉への違和感は、「私たちのいま最も気がかりな事、最もうしろめたいもの」を置き去りにして、戦後の新しい思潮である「何々主義」にいち早く便乗しようとする傾向が、「文化」という美辞麗句が横行する影に隠れている、ということにあるのだろう。「気がかりな事」「うしろめたいもの」とは、戦時下の軍国主義に同調したことである。その過去を再検証しないまま、ずるずると新しい時代へなだれこもうとする風潮に、自分は距離を取ろうとすること、それが「田舎者の私」という言葉に表れている。
  そしてこの年三十七歳の太宰の言葉に、『文化展望』の発行者達も共感したと考えられる。次号の大西巨人「小説展望」(1946・5)は、「十五年間」について次のように述べている。

敗戦以来目に触れた作品の中で、殆ど唯一の『過去への反逆』の無い作品。保身の術を蔑視することの不賢明さと崇さと示してゐる好例。ただ、この作者は自分の身につけたポーズに甘えることを警戒すべきであらう。

  『過去への反逆』とは、先に述べたような、戦時下の自己の有り様をまるでなかったように看過し、戦後の時流に便乗することだろう。大西はそのような態度とは真逆のものを、太宰の作品に読み取っていたようだ。「十五年間」の最後は、「パンドラの匣」からの引用で締めくくられている。停電の夜の場面の越後獅子の言葉。

十年一日の如き、不変の政治思想などは迷夢に過ぎない。(中略)日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒してみたって、それはもう自由思想ではない。それこそ真空管中の鳩である。真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばねばならぬ事がある。天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。(中略)アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの真の自由の叫びを認めてくれるに違いない。

  (引用してみると単行本本文と異同がある。「それこそ真空管中の鳩である。」は「便乗思想である。」に、そして「古いどころか詐欺だった。」がない。表現が簡潔になっている。新聞連載から単行本化の際改めたのだろう。)
  「天皇陛下万歳!」という叫びは時流に逆行している。だからこそ便乗思想ではない。ここでの越後獅子の主張を正しく理解するのは難しそうだ。一部の権力によって利用され、服従を強要される天皇ではなく、国民の素直で自然に発した敬慕の心によって天皇が奉戴され、それをシンボルとして、国民一丸となって敗戦日本を再建するということなのだろうか。
  同年発表の「冬の花火」の次の一節がヒントになるかも知れない。

あたしは今の日本の、政治家にも思想家にも芸術家にも誰にもたよる気が致しません。いまは誰でも自分たちの一日一日の暮しの事で一ぱいなのでしょう? そんならそうと正直に言えばいいのに、まあ、厚かましく国民を指導するのなんのと言って、明るく生きよだの、希望を持てだの、なんの意味も無いからまわりのお説教ばかり並べて、そうしてそれが文化だってさ。呆れるじゃないの。文化ってどんな事なの? 文のお化けと書いてあるわね。どうして日本のひとたちは、こんなに誰もかれも指導者になるのが好きなのでしょう。大戦中もへんな指導者ばかり多くて閉口だったけれど、こんどはまた日本再建とやらの指導者のインフレーションのようですね。おそろしい事だわ。日本はこれからきっと、もっともっと駄目になると思うわ。

アナーキーってどんなことなの? あたしは、それは支那桃源郷みたいなものを作ってみる事じゃないかと思うの。気の合った友だちばかりで田畑を耕して、桃や梨や林檎の木を植えて、ラジオも聞かず、新聞も読まず、手紙も来ないし、選挙も無いし、演説も無いし、みんなが自分の過去の罪を自覚して気が弱くて、それこそ、おのれを愛するが如く隣人を愛して、そうして疲れたら眠って、そんな部落を作れないものかしら。あたしはいまこそ、そんな部落が作れるような気がするわ。

    
本エントリーではYokoiMoppo氏のブログを参照した。大西巨人の「太宰治」 - Hatena::Diary