久保田義夫「魂の中の死」―植民地社会の縮図

  久保田義夫の作品集『魂の中の死』(1972)を読んだ。年末の古書セールで買ったものだ。奥付の著者略歴によれば1917年宮崎県生まれ、41年京城帝国大学法学部卒業後、47年ラバウルより帰還。59年に歴史小説集『黄色い蝶の降る日に』を刊行、『詩と真実』『九州文学』同人とある。国会図書館の検索結果では、他に『徳永直論』(1977)、『さらばラバウル』(1991)、『有り水・霧島』(2001)を上梓しており、熊本の文芸同人誌『詩と真実』編集に77年から83年まで携わっている。個人的には熊本の作家という印象だった。
  注目したのは、表題作「魂の中の死」(初出『詩と真実』1957・3 後『新日本文学』57・5に転載)である。これは京城大学時代の思い出を題材に、1930年代末から40年にかけてのソウルを舞台とした青春群像小説だ。この時期を描いた作品としては、金史良「天馬」(『文芸春秋』1940)や田中英光酔いどれ船』(1949)が有名だが、どちらもデスペレートな閉塞感が残る小説だった。なお川村湊『〈酔いどれ船〉の青春』では、両作を対比しつつ当時の朝鮮文壇の様相を詳しく論じている。
  同じ時期であっても、久保田の作品は文壇ではなく、大学が舞台となっている点に特徴がある。そして戦争の影が、大学という学問の場にも覆い被さっていく様子が随所に点描されている。それに関連して教員達の動向が実名で書かれているのが興味深い。

平城は安倍教授[※安倍能成]の内鮮問題にふれた随筆を思い出した。日本人は五十年で西洋文化を消化したと云つて威張つているが、朝鮮はわずか三十年で消化したとある鮮人[ママ]のインテリが言つた言葉に対して、短時日の間に西洋文化を消化しなければならぬという状況は決して幸福な事ではないのだと書いていた。(p.40)

「さあ、みんな飲みたまえ!」と、尾高教授[※尾高朝雄]が景気直しに言つた。「日本はいま大賭博をうつているんだよ。大賭博をね。君たちも、ぼくのように肚をつくり給え」(p.42)

皇国臣民の誓詞に文句をつけに総督府に出向いた国語学の時枝教授[※時枝誠記](p.30)

  久保田は在学中、京城大学の文芸同人誌『城大文学』に「二人行脚」(短歌)・「行程」(小説)を発表していたことが、同人の一人で後に朝鮮教育史研究者となる渡部学の回想「『城大文学』の頃」*1から分かるものの、具体的な内容は不明である。
  ただしこの『城大文学』は、渡部によれば

日韓両民族の共通の地平があるかも知れないという漠然とした思念もまつわっていたが、そういうものを書いて活字にし、読んでくれる人々に訴えたいとの、共通の考え方があった

とあるので、久保田も在学中より「民族」や植民地支配の問題に触れることがあったのかも知れない。戦後、間を置いて書かれた本作では、明瞭に「民族」の問題が全面的に扱われている。
  本作の内容について、永松定は次のように簡明にまとめている。

  朝鮮とはすなわち植民地であり、朝鮮人とは、日本人に統治される民族ということであるが、同じ大学生にしても、日本から直接やって来た主人公平城のごときもの(純粋の内地人)朝鮮生まれで朝鮮で教育を受けて来た大原一郎のごとき者(いわゆる朝鮮二世)、満洲人の孫、そして最後に朝鮮人李昌益、以上のような様々な人種や細かなニュアンスの違いがある*2

  このように京城大学を中心に集う多様な階層の人々を書き分けようとした点に、植民地社会の縮図を捉えようとする作者の意図が見られる。中でも主要な登場人物は、平城が思いを寄せる女性・西岡ミユキと李昌益である。
  ミユキは、父親が「朝鮮に乗り込んで来て、ほとんどただみたいな金で土地を買い取つた」後で亡くなったため、広大な果樹園を相続したが、今では孤児であり伯母の下に身を寄せている。彼女は自らの寄る辺なさを、平城の「内地の血」によって埋めようとする。

  「あたし血という言葉が一番こわいの。天皇の何処が偉いのかつて真面目にきくと、みんなかんかんに怒つて「血だ!」「血だ!」つて言うでしよう」(p.38)

  「あたしは孤児よ!(中略)内地の血が欲しいわ」と、またつぶやくように云つた。
  平城は急にのばそうとした手をひつこめた。
  「あたしをしつかり抱いて!」
  平城は一歩一歩しりぞいた。
  「そしたら、きつと、あたし安心してよ。なにもかもすつかりわかるにちがいないわ! あたし淋しいの。内地が恋しいの」
  一段一段後向きに平城は石段を踏んでのぼつた。着ているオーバーをたぐつて、それを力一杯に握つた。「畜生!」彼はうなつた。「おれは平城隆夫ではなくて、内地の血なのか?」(p.38-9)

  彼女の伯母の再婚相手である李中佐は「わしは朝鮮人でもなければ、日本人でもない、帝国軍人だ!」と唱えるような人物であり、同族の李昌益は「内鮮一体の標本」と批判する。李は、平城に植民地支配の矛盾を突き付ける人物である。

 「どうして書いたら悪いんだあ!」
  喰つてかかつているのは李昌益だ。

  朝鮮人学生はたとえ実力はあつても、植民政策上一番になることは出来ない(p.11)

 「君達は第二の朝鮮を満洲に作つた。今度は支那につくるのか?」(p.13)

 「オンモン(諺文)新聞は発禁になつた。朝鮮語はとつくの昔に奪いとられている。若い者はもう諺文も書けなければ、読めもしない。それに、ぼくはめつたなことは言えやしない。下手なことをいうと刑事がぼくを引つ張つて行くからね」(p.28)

 「ぼくがヤンバン(両班)階級の出だということは、たしかに弱点だ」と李は急に早口になつた。「しかし、君は内地人だ。とうしても内地人たよ。たいかく(大学)でたら、君の月給には植民地手当がつくよ。ぼくたちにはつかない。たいいち、君、ぼくたちに職があるかどうかわからないよ。」(p.29)

 「まさか内地人はだます事はないだろうね」
  つぶやくように李益昌が言つてから、座はにわかに緊張した。
 「もし、今度だますような事にでもなれば大変な事になるよ」
  それは徴兵令をも含めた内鮮一体政策の事を言つていた。
  居あわせた内地人達ははつとし、しばらくしてから思い出したように
 「そんな事ないよ」
 と一人一人言つた。そんな事を言われるのは心外という口振りだつたが、自分に言いきかせるという調子になつていた。(p.42)

  このように先鋭な「民族」意識を持つ李に対して、平城は次のように思う。

平城は自分の問題と区別することを望み、そしてそれから逃避したがつている「民族」という問題が、李昌益の場合には、もつと重大に混同され、からみあつているという事実に突き当たつた。(p.30)

李昌益は平城に日本民族全体を背負いこませようとするのだ。嫌な感じだつた。(p.9)

  ここから分かるように、平城は、必ずしも李に対して理解ある“よき日本人”として描かれてはいない。戦後の作者であれば、そのように主人公を美化することもできただろう。だが、恐らくここでは当時の「内地人」の感性自体の再現を目指している。その点に、この作の意義がある。
  李との交際から、次第に「平城の方が何にでも民族を感ずる習性になつてい」く。そして学内の評論雑誌に「目に見えぬガラスを破るために話し合おうことから始めよう」という主旨の論文を掲載する。一方、植民地政策に批判的だった李は、こともあろうに朝鮮人志願兵を目指すこととなる。

君朝鮮の田舎に行つたことがあるか。(中略)田舎へ行くとだね、白衣禁止令がでて、白いチマを着ていると、墨を塗られるんだよ。墨を塗られたらチマは台なしになるから、貧乏人にはつらいことだよ。それから創氏改名ね、先祖伝来の姓をかえることは個人にも一族にもそれはつらいことだからね。朝鮮の姓は、日本の姓とちがつて、親戚関係が広くてややこしい、たとえばぼくの姓は李は改姓では国本ということになるのだ。君にもわかるだろう李は李氏朝鮮、李王家の李で、朝鮮の象徴、国家の基幹だ、だから国本という姓になる。創氏改名する場合、もとの姓をどういう形で残すか苦心のいるところだ。改姓は身を切られるようにつらいことなんだよ。でもぼくは戦場に行つて朝鮮人の血を流すよ。朝鮮人の血をいつぱい流すよ。突つ込め!と突撃するよ。(p.40)

李昌益は、今のような気持になるまでどんな紆余曲折をたどつたのだろう。その過程を知らぬ平城には李昌益が全く別人のように思えるのだつた。しかし、今日の李昌益の悲痛さや興奮やすさまじさの感じは、あの上から、まわりから押しつけて来る「時局」というものの感じ、徴兵令をも含めた一連の内鮮一体政策がぎりぎりの所まで来ている感じからすれば、なつとく出来るものだつた。(p.40-1)

  この李は朝鮮戦争の際、共産主義に与した罪で韓国軍に殺されたことが、冒頭で明らかになる。

  李昌益左傾の科で南軍に殺害さる

  これをどう解釈していいかわからない。李昌益の故郷は北鮮だつたのに、北鮮には帰らず京城に睹みとどまつて、その後の動乱の渦の中に巻き込まれたのだろう。李昌益と別れた時の感じから言えば、かれはあれから日本の軍隊にはいつた可能性が強い。そうだとしたら―(p.4)

  ここで暗示されるのは、民族主義から日本の軍国主義に転向したが、罪責感を払拭しようと共産主義に再度転じ、同胞の手にかかって命を落とした李の振幅の多い一生である。同じ同窓会誌には「禹明珂反共的言辞の故に北軍退去の際拉致殺害さる」「朴曹漢、島根県浜田市にて復員。平壌に墓参の上、満洲に家族を訪ねて後、消息不明となる」など、かつての朝鮮人学生の末路も記されている。そこには朝鮮現代史の重苦しい“戦後”がのしかかっている。
  ミユキもまた“戦後”に生きて帰らなかった一人だった。敗戦時に北朝鮮にいた彼女は、祖国防衛隊に捕らえられ、レイプされそうになった時に抵抗して殺される。ミユキの最期を人伝にしか知らない平城は、その様子を次のように想像する。

彼女は男たちの前にころがされる。銃剣が彼女のモンペを引き裂く。彼女はもう叫ばない。(中略)彼女は右手で、手の届く所にころがつている銃剣を、自殺するためにつかむ。と同時に、傍に立つて見ていた男が奇声を発しながら拳銃を発射する。

  留置所の中で、男たちは顔を見合わせる。(中略)「いくつぐらいだつたろうな」「二十三ぐらいという所ですよ」「そうですな、別嬪でしたな」「だいたい、あなた、ネツカチーフなんかして、お洒落しているからいけませんワ」「だが可哀想には可哀想さなあ、おれたちのかあちやんもどんな目にあつているかわからねえ。戦争には負けたくないもんだ。おれたちが支那でやつた事を今度は逆にやられているんだからな」(p.48-9)

  戦場へ送られながら最終的に生き残った平城は「自分だけが生きていることは間違い」と思い、「死んでしまつたようなかれの心の中で、二人の死はますます重く深いものになつて行く」と結ばれる。日本の敗戦から五年を経て、平城は植民地の記憶を引きずり続けている。作品全体は回想という形を取っているが、そこで引用された過去の姿が、現在の平城の罪責感を強く滲ませたものとなっていることは、これまでの引用から明らかだろう。
  中野重治は「そつくりそのまま」で、敗戦後の日本が、“敗戦”に至る経緯を直視せずにすむシステムをいち早く作り出していることを指摘した。

  彼らは戦争に負けたと思っていない。彼らは負けたことを知らない。知らずにすむように具合よく仕組みが仕組まれている。

  ここでは「国民の敵」として旧大日本帝国の官僚制度しか指されていないが、恐らく敗戦後多くの日本人において、それまでの生々しい植民地や戦争の体験を忘却していくような、記憶の塗り替えが、時間の経過とともに進んでいったのではないだろうか。
  このように考えると、この作品は、戦後の忘却に対して、植民地の生々しい記憶を小説の形で喚起・定着させようとしたものだといえる(『新日本文学』に掲載されたこの小説を、中野は読んだのだろうか)。安易な自己肯定にも性急な自己否定にも偏らない、冷静な自己凝視の筆致が、そのような記憶の再定着を可能にしている。その点を高く評価したいのと共に、さらに同じテーマを書き継いで深化させて欲しかったと思う。その点で、永松は「「魂の中の死」という現代物を歴史物よりも先きに出版して貰いたいぐらいであった」と書いているが同感である。
  本作は、客観小説でありながら、あくまでも平城という視点人物を通してのみ李やその他の朝鮮人の姿を描いている。だが、後年より資料が充実し作者自身も距離を置けるようになった段階で、例えば彼ら自身の内面に踏み込んだ形での作品は構想できなかっただろうか(例えば中西伊之助『赭土に芽ぐむもの』や中島敦「巡査の居る風景」のように)。もちろんそこには錯誤が含まれるかも知れないが、そのような認識の試みがなされることは、当時の作者自身の体験の欠落を補うことにもなるし、私達読者にも貴重なものとなると思うのである。

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*1:京城帝国大学創立五十周年記念誌編集委員会編『紺碧遥かに』(1974)所収

*2:「跋 久保田義夫の芸術」、『魂の中の死』所収