中島敦「巡査の居る風景」:意識されない支配の中で

 辺見庸がブログで中島敦に触れていた。既に該当記事は消去されているようだが、中島が一高生時代に書いた習作「巡査の居る風景 ―一九二三年の一つのスケツチ―」についてだ。

◎「巡査の居る風景」のことなど

「巡査の居る風景」よむ。またおどろく。たじろぐ。
20歳で書いたって!朝鮮人の側から。1929年の作だ。
迂闊だった。時間がいくらあっても足りない。知らなか
った、忘れていたではすまされない。

反日テロ、関東大震災朝鮮人虐殺が、さりげなく埋め
こまれている。一高「校友会雑誌」のレベルの高さよ!
というより、天才の目のたしかさよ!

http://yo-hemmi.net/article/458813655.html#more

 辺見は、「巡査」が日本による朝鮮の植民地支配、そして虐殺を「朝鮮人の側」から描いたことに吃驚している。彼は『1★9★3★7』で、南京大虐殺を中国人の側から捉えた堀田善衛の小説『時間』を取り上げる理由を、次のように述べていた。

 小説は主人公である中国のある知識人(「わたし」=陳英諦)の手記というかたちではじまる。ここでまずもって注目しなければならないのは、堀田善衛がこの作品で、だいたんにも、「みる」ことと「みられる」ことの、いわば〈目玉のいれかえ〉のようなことをやったことだ。大ざっぱにいえば、加害と被害の立場の転換である。(角川文庫版、上、p40)

 この点に即して「巡査」を見れば、この作品は大日本帝国に仕える朝鮮人の巡査=趙教英の視点を通して、植民地支配者の側にあった作者・中島敦が、支配する者(加害者)と支配される者(被害者)との〈目玉のいれかえ〉を試みたもの、ということになるだろう。ただし、『時間』の陳英諦が日本軍の協力者の振りをして、秘かに日本人への観察を続けていたのに対して、中島の小説の主人公は、同胞である植民地支配下朝鮮人達により多く目を向けている。つまり、支配を強いられた側の心性を、権力の末端であり民衆の外側に立つ「巡査」という立場から、「スケツチ」した作品なのである。

 作者の中島敦は父親の転勤に伴われ、1920年から26年までの6年間、年齢にして11歳から17歳までをソウル(京城)で過ごした。従って関東大震災の時は朝鮮にいた。1926年京城中学校から第一高等学校に進学し、伝統ある一高文芸部に所属した。「巡査の居る風景」が発表されたのは、文芸部誌『校友会雑誌』第322号(1929年6月1日)である。
 では、震災を直接経験しなかった中島は、朝鮮人虐殺事件をいつどこで知ったのだろうか。単純に大学入学後、東京へ行ってから後とは限らない。朝鮮総督府警務局が、震災のあった23年12月に作成した「関東地方震災ノ朝鮮ニ及ホシタル状況」によれば、虐殺事件に関する記事は「民心ニ至大ノ影響」を与えるという理由から、「官庁ノ発表及予審決定書ノ公表アリタルモノ」に限り解禁された。
 そして9月1日から11月11日までに、『東亜日報』『朝鮮日報』など朝鮮語による新聞18回、日本語新聞26回、「内地」から移入する新聞403件差押処分している。このような厳しい言論統制にも関わらず、元警務局長・丸山鶴吉の回想によれば「漸次朝鮮内に関東に於いて朝鮮人の蒙つた諸般の実状が知れ渡つて来て、至る処憤懣の気分が漲り、何となく重苦しい、険悪な空気が充満するのが感じられ始めた」という。
 だとすれば、中学生の中島はソウルでこの「憤懣の気分」「険悪な空気」を肌で感じ取った可能性もある。まして、彼が朝鮮に来たのは1919年に3・1独立運動が行われた翌年である。植民地支配の矛盾が露呈し対立した、その余燼冷めやらぬ時期が、彼の異土での生活の始まりだった。 作中には、新しい朝鮮総督の姿と、朝鮮人青年による暗殺未遂事件が書き込まれている。

 此の総督は今迄の総督達と同じ様に軍人出身ではあったけれども、今迄の誰よりも一番評判がいいようであった。鮮人[ママ]達の中にも心服して居るという者が可成あるのだ。だが……………

 この「総督」は、第二代朝鮮総督を務め、後に2・26事件で殺された斎藤実を指している。斎藤が就任に当たって推し進めたのが「文化政治」だった。歴史家の姜在彦は、その特徴を次のようにまとめている。

 三・一独立運動は、日本の統治者たちに強い衝撃をあたえ、暴力による武断的方法で朝鮮を支配することの不可能を自覚させた。一九一八年の米騒動によって、寺内正毅内閣が倒れ、原敬内閣が成立した。原敬三・一運動による混乱の収拾と、植民地支配の安定をはかるために、朝鮮総督長谷川好道を更迭し、あらたに海軍大将斎藤実を総督に任命した。一九一九年八月に総督に就任した斎藤は、二七年十二月から二九年八月までの陸軍大将山梨半造の総督時代を除いて、一九三一年六月までその地位にあった。(中略)この一〇年間を「文化政治」の時期という。
 斎藤はその政務総監水野錬太郎とともにソウル駅に降りた途端、老儒姜宇奎の爆弾の洗礼を受けた。そして村田少将ほか三十数名が重軽傷を負った。水野はいうまでもなく、一九二三年の関東大震災のとき、日本政府の内務大臣として、朝鮮人社会主義者の虐殺を誘発させた張本人である。(中略)
 一九二〇年代の「文化政治」は、象徴的にもこのようにして出発した。その統治方法は、一九一〇年代の武断政治がもっぱら暴力に頼ったのにたいし、暴力と懐柔を組み合わせたところに、その相違がある。いわゆる「文化政治」は、内地延長主義によって、朝鮮における内地との制度的差別をできるだけ縮小し、「内鮮融和」と「民意暢達」をはかるというものであった。(姜在彦『増補新訂 朝鮮近代史』平凡社 1998年 p.256-8)

 暴力に裏打ちされた融和政策の欺瞞は、作中の随所で日常的な差別として「スケッチ」されている。相手が朝鮮人であると無理難題を押し付ける「日本の中学生」、「ヨボ」が当時は蔑称の意味を含んで用いられていたことを知らずに使う「日本の女」、同じく民族的な罵倒に対して「私達も又光栄ある日本人であることを飽く迄信じて居るのであります」と「巧みな日本語」による演説で訴えかける朝鮮人の府会議員候補者。

 趙教英もまた「日本の紳士に丁寧な扱いを受けたことによって(中略)喜ばされて居た」自分に気づき、「俺達の民族」は「永遠に卑屈なるべき」「性質」を持つよう「歴史的に訓練されて来て居る」と考える。そして他方で「果たされない義務の圧迫感がいつも頭の何処かに重苦しく巣くって居る」と感じる。だが「自分で自分を目覚ますことが恐ろしい」ので、それ以上穿鑿しようとはしない。

 支配の仕組みを再生産するのは、教育である。作中には朝鮮人子弟が通う普通学校の場面が印象的に描かれている。

 高等普通学校の校庭では、新しく内地から赴任した校長が、おごそかに従順の徳を説いて居た。(今迄居た内地の中学校で、彼が校規の一つとして、独立自尊の精神を説いたことを、幾分くすぐったく思い浮かべながら。)

 

 普通学校の日本歴史の時間、若い教師は幾分困惑しながら、遠慮がちに征韓の役を話した。

 ―—こうして、秀吉は朝鮮に攻め入ったのです。――

 だが、児童達の間からはまるで何処か、ほかの国の話しででもあるような風に鈍い反響が鸚鵡がえしに響いてくるだけなのだ。

 ―—そうして、秀吉は朝鮮に攻め入ったのです。

 ―—そうして、秀吉は朝鮮に攻め入ったのです。

 子供達は、植民地支配に至る歴史を「ほかの国」のことのように捉えている。その程度に支配の仕組みは、子供達の意識に浸透している。

一九二三年。冬が汚く凍っていた。

とは、力による支配が行き渡り、抵抗する心持すら凍てついてしまった植民地の姿をも暗示する。

 この中で唯一声を上げるのは、娼婦の金東蓮だ。商売の用事で日本へ行った夫は、そのまま帰ってこなかった。もちろん彼女は、その本当の理由を知らない。真相を知るのは、客の男からである。

 ――震災で、ポックリやられたんだよ。(中略)

 ――じゃあ、何かい。お前の亭主はその時に日本に行っていたのか。(中略)男は急にギクリとして眼をあげると彼女の顔を見た。と、暫くの沈黙の後、彼は突然鋭く云った。

 ――オイ、じゃあ、何も知らないんだな。

 ――エ? 何を。

 ――お前の亭主は屹度、………可哀そうに。

 一時間の後、東蓮は一人で薄い蒲団にくるまって暗い中で泣いて居た。彼女の眼の前には、おどおどと逃げまどって居る夫の血に塗れて火に照らし出された顔がちらついた。

「あんまりしゃべっちゃいけないぜ。こわいんだよ。」と去り際に云った男の言葉も頭の何処かでかすかに思い出された。

 

 数時間の後、やっと夜の明けた灰色の舗道を東蓮は狂おしく駈けまわって居た。そして通りすがりの人に呼びかけた。

 ――みんな知ってるかい? 地震の時のことを。

 彼女は大声をあげて昨晩きいた話を人々に聞かせるのだった。彼女の髪は乱れ、眼は血走り、それに此の寒さに寝衣一枚だった。通行人はその姿に呆れかえって彼女のまわりに集って来た。

 ――それでね、奴等はみんなで、それを隠して居るんだよ。ほんとに奴等は。

 到頭、巡査が来て彼女をつかまえた。

 ――オイ、静かにせんか、静かに。

 彼女はその巡査に武者振りつくと、急に悲しさがこみ上げて来て、涙をポロポロ落しながら叫んだ。

 ――何だ、お前だって、同じ朝鮮人のくせに、お前だって、お前だって、………

 当初中島はこの作品を戯曲として発表しようとしていたらしい。震災下の朝鮮人虐殺については、未完の長編「北方行」でも触れており、いかにこの主題が大きなものだったかが分かる。

 立場としては「奴等」と名指される側にある作者が、想像力を限界まで押し広げて、「同じ朝鮮人」の中に亀裂をもたらす支配の仕組みにまで分け入ったことは、やはり銘記されなければならないだろう。そしてこの作品の衝迫力は、作者が支配の構造を我が事として、つまり自身もまたこの仕組みに囚われているものと意識化した点に由来するのではないか。