映画「JOKER」:誰にも愛されなかった男

 以下盛大にネタばれする。

 

 US版予告は、ある“ストーリー”の予感を見る者に抱かせようとしている。

 00:16~母の世話をするコメディアン志望の青年が、00:25~周囲の悪意に翻弄され、00:39~静かに怒りを溜め込んでいた。00:46~そんな貧しい生活にもささやかな幸せがあったが、00:55~次第に不幸の影が蝕んでいき、01:08~感情を抑えきれなくなり、01:15~遂にトラブルに巻き込まれたのがきっかけで、彼の心は壊れていく。自分を追い詰めた社会に復讐しようと01:37~拳銃を弄び、02:04ジョーカーとして覚醒する。別の予告では母が入院している場面もあるので、その死がそのきっかけになることも予測がつく。

 つまり、“心優しき主人公が、社会の不条理によって追い詰められ、大切なものを奪われた挙句、復讐者として牙をむく”という物語だ。これは非常に感情移入しやすい。多少暴力的であっても、非はもともと向こう(社会の側)にある。溜めに溜め込んだ鬱憤を最後に爆発させるというのも、カタルシスを与える。

 だが、この映画はそのような作品ではない。

 復讐譚は、一旦手にした温もりを奪われるからこそ悲壮であり、その暴力も受け入れられるのだが、この映画では、母の愛も恋人も幻想だったことが示される。主人公アーサーには、そもそも自分を正当化する物語さえ最初から与えられなかった。そのような関係の貧しさ(「アーサーを取り巻く世界はいたるところで共感に欠けている」と監督は語っている)に対する絶望が、彼をジョーカーへと変貌させる。誰もが自分を守るのに手一杯で、他を顧みることのできない世界。しばしば場を凍り付かせるアーサーの不器用さは、そのヒリヒリした空気の中で生き抜かねばならない苦しさを存分に伝える。発作的な笑いもまた、彼のバルネラブルな在り方を示すものだろう。

 その点で、本作のジョーカーは、ジャック・ニコルソンヒース・レジャーと異なり、明らかにリアルで弱い存在である。まずアーサーは、他と違って無差別殺人をしていない。彼が直接手を下したのは、地下鉄で絡んできたサラリーマン、自分を欺き続けてきた母、自分を陥れた元同僚のランドル、そして憧れの対象でありながら自分を笑いものにした人気司会者マレーである。他作品のジョーカーが、堂々たる信念(?)を持って、理由もなく不特定多数の人間を次々と殺すのに対して、アーサーの動機は自衛または私怨である(だから優しくしてくれたゲイリーは殺さない)。

 彼を「ジョーカー」にしたのは、彼をカリスマとして英雄視する群衆である。アーサーのピエロ姿は、不満が高まっていたゴッサムの街で、エリート階層に対する憎悪と反逆のシンボルとなる。この映画では、アーサー個人の心の動きと、自分達の鬱憤を晴らしてくれる「何か」を待ち望む人々の心の動きを、はっきり描き分けている。それがよく分かるのは、パトカーから救い出されたアーサーが、群衆の前に登場するシーンである。彼は人々に背を向けたまま(観客に顔を見せて)、自分の血でハッピーフェイスを描き、振り返って歓呼の声で迎えられる。舞台に上がる時のように、彼らに見せるのはメイクをした顔なのである。

 本当のアーサーは、一線を越えてしまった、ただの弱い人間だ。人を殺すという一線を越えてしまったから、彼は自分が“無敵”に思える。以前にも書いたが橋本治は『天使のウインク』の中で、当時の酒鬼薔薇事件を受けてマスコミで盛り上がっていた「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いに、「人と関係を結ぶことができなくなるから」と答えていた。「殺す」という選択肢を持ってしまった人間にとって、思い通りにならなかったり自分を脅かす他人は、ただ消せばよいだけの存在だ。手っ取り早い手段を持ってしまえば、煩わしい関係や理念に囚われている他人は、弱者に見える。しかし、その無敵カードは、あらゆる人との繋がりを断つことでしか手に入らない。

 だがアーサーは、最後の最後まで繋がりを求めていたように思える。マレーとの対話は、疑似的な父親殺しのようだ。マレーは確かにアーサーを笑いものにしたが、出演前にはえらく親切だったし、殺人の告白を聞いても「つまみ出せ」という客席の声を無視して、最後まで司会者として相手をし、コメントを引き出そうとしていた。私には、それがアーサーの人と繋がる、最後のチャンスだったのではないかと思える。だから、彼が追い詰められて、マレーを射殺する場面は悲しい。

 繋がりを失って無敵になった「ジョーカー」が、今後どうなるかについては、余り興味がない。そこに至るまでのプロセスをきっちり描くことで、この映画は完結しているからだ。

 長い印象的な階段を、とぼとぼ肩を落としながら「上昇」するアーサーと、ダンスしながら「下降」するジョーカーとの対比など、画面作りも見事だった。

(蛇足だが、本作を見て新井英樹の「ザ・ワールド・イズ・マイン」を思い出した。幼児期にネグレクトを受けた主人公が、メディアを通じた犯罪によってカルト的な信奉者を集めていくという接点があったからだが、徐々に変貌していく様はトシに似ている)

 

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