千野帽子『俳句いきなり入門』――自己愛から解放されるための俳句

俳句いきなり入門 (NHK出版新書)

俳句いきなり入門 (NHK出版新書)

  著者・千野帽子俳人ではなく文筆家。「ガーリッシュ」三部作で記憶していたので、「なぜ俳句についての本を?」と最初は不思議だった。本書を一読してみると、まさに俳人でない著者ならではの「外から目線」によって貫かれた〈俳句〉観が爆発。理論的背景になっているのは、バフチンの〈対話〉や言語論的転回など、むしろ正統的ともいえる小説理論や言語観だが、それらを適応することで、こんなにも魅力的に〈俳句〉を論じることができるのか、と思った。
  著者の俳句にはまったきっかけが句会にある、というのも、自分の経験と照らし合わせて納得できた。句会の面白さは、自分の俳句が目の前で他人によって批評されるところ、そして他人の俳句について作者の思いもかけぬ意味まで読み取って見せるところ、つまり匿名性とディスカッションにある。ここまでは本書も指摘しているが、付け加えれば、関連する内容の句同士が、個別の作者を離れて互いに結びつき、一つの世界を作ってしまうというところにもあると思う。
  つまり〈俳句〉の面白さは、〈作者〉の自我や思想を表現するという近代芸術の範疇に収まらない部分にこそある。この点について著者は何度も(時にはかなり辛辣な口調で)念を押している。〈俳句〉は「自己表現」ではない。「自己表現」に堕した俳句は、つまるところ“私を見て!”という「ポエム詩」に過ぎない。

  俳句は詩歌ではない。(中略)「俺の心の叫びを聞け」って感じの心理主義、「私を見て」「私の思いに共感して」って感じの自我の吐露・爆発、意味がわかりきって「読み」の余地が少ない自己完結。こういったものがポエムの特徴だ。

「こんな私をわかってもらう」ための手段として俳句をとらえている。(中略)当然、自分の俳句を読んでほしいだけで、他人の俳句をちゃんと読む気がない。そして、作者である自分の意図を言葉の木目より大事にする。
  その結果、「こういう内容を言いあらわそう」と考えて、それを表現するために言葉を捜す段階にとどまり続ける

  これに対して著者が主張するのは、「俳句では自分より言葉の方が偉い」ということであり、「言いたいことがあるときには俳句なんか書くな」とまで言い切る。反「自己表現」としての〈俳句〉。

「自分の言葉で表現しろ」なんて言うけれど、言葉は本来他人のもの。私たちは全員それを借りて使っている。規則や慣習に従ったくらいで損なわれる「言いたいこと」など、もともとひ弱な「言いたいこと」だ。
  俳句では「もともと言いたかったこと」より「結果」のほうが大事。自分より言葉の方が偉いのだ。(中略)「言葉より自分の方が偉い」人は無理に俳句なんかやらなくていい。

  自分のなかにある言葉とは、自分が制御できる言葉のことだ。自分の意図にある程度忠実であって、その言葉で自分がなにを言おうとしているのか、自分ではよくわかっている(意図したとおりの意味で他人に伝わるかどうかはべつなのだが)。このとき作者は、言葉は自分の発想を表現する透明なツールだと思っている。つまり、着想(「こういう内容を言いあらわそう」)が先にあって、その内容をあらわす言葉を自分のなかで捜そうとしてしまうのだ。

  俳句というものは、自分の外にある言葉で作るものだ。作った本人が作った瞬間自分で読んで、世界最初の読者として「なんだこれ?」と驚けるところが俳句の魅力。「こういう内容を言いあらわそう」と考えるのではなく、「×××という言葉を使おう」と考えて、それに合わせるためにべつの言葉(そのなかには季語も含まれる)を捜してみよう。

  だから句の意味は、作者の側で自己完結してしまうのではない。句会という場で、他者の言葉による参与を経て、初めて発見される。

句の意味は作者が決めるものではなく、その場の優れた読み手たちが会話のなかで発見するもの

読んで評する。また他人の評を聞く。俳句が俳句となっているのは、その最中だけなのだ。

書いただけでは句は完成しない。句会で読んでもらって、「この句の意味はこうだろう」「いや、ここはこうなんじゃないか」と言ってもらっているあいだだけ、その句は成立している。

  まず初めに言葉ありき。このスタンスを著者は貫いている。興味深かったのは、この観点から近代俳句の革新者・正岡子規の唱えた「写生」を、フォルマリズムの主張した〈異化〉効果に通じるものとしているところだ。まず「写生」について、次のようにまとめる。 

  明治時代、俳諧はそれまでなされてきた既存の言い回しや題材選択の蓄積の使い回しや順列組み合わせと化していた(と子規には見えた)。のちの世の人なら相互テクスト性とかデータベース消費といった言葉で記述するような状況だ。(中略)そういう既存の言葉の使い回しに出てくる「雪」や「桜」と、俺ら三次元の人間が見たり触ったりするカギカッコなしの雪や桜とは、ずいぶんとかけ離れてるんじゃないか?(中略)テンプレートと化した当時の俳諧を子規は「月並」と呼んで批判し、近代的なアートとしての俳句を作ろうとしたわけだ。
  そのとき彼が依拠した言葉が「写実」であり「写生」である。

  「写生」とは、「既存のイメージ群からはみ出す要素」を注視し作品に反映することである。しかし、それは現実そのものを写すこととは違う。なぜなら「写生」もまた言葉で行われるものだからだ。むしろ「写生」とは、既存の表現の蓄積である「型」に、新たな表現を付け加える方法だと著者は述べる。

  現実の雪や桜を見るのは、そのほんとうの姿を記述するためではない。既存の「型」に含まれない表現、あるいは日常あまり言われない表現を見つけるためなのだ。(中略)その意味で「写生」概念は、旧ソ連の批評家シクロフスキーの言う「異化」概念にもつうじる考えかたなのだ(中略)ふだん使っている手垢のついた言葉は、効率よくパターン化した思考のテンプレートなので、見馴れたものを見馴れたように書くことしかできない。いっぽう言葉が更新されたとき、馴れ親しんできた対象がまるで初めて見る奇異なものに見える。これが異化だ。そのためには、ふだん使いの言葉の外に出るしかない。
  その方法として子規は、対象を直視して言葉を捜そうとしたのかもしれない。

  つまり「写生」とは、自分ではよく分かっているつもりの現実を注視し、見過ごしていた新たな面を感知し、それを表現できるよう、手持ちの言葉を刷新していくことである。そして言葉が刷新されれば、その対象に対する新たな認識も定着する。

  著者の〈俳句〉観は、「発話主体とは生身の作者のことである」という大前提の打破を目指している。

「俳句は文学である、自己を表現するものである」という国語の授業的な思い込みは、「自分」というちっぽけな器のなかに自分の俳句を囲いこんでしまう枷にしかならない。「自分」の外にある言葉は無限なのに。

一作者の名のもとに書かれた全作品の背後に統一された発話主体を求める発想とは、俳句を日記や私信と同一視する発想にほかならない。そういう「実体験主義」は俳句を狭めるだけです。

  ここで逆に問うてみたい。なぜ俳句が日記や私信と同じであってはいけないのか。なぜ俳句を通して「自己表現」してはいけないのか。恐らく筆者はこう答えるのではないか。“それはルールではなくマナーだからだ”と。本書でいう「マナー」とは、「守ると快いから」守るもので、強制的な「ルール」ではない。「守るのが快くなくなったら破る覚悟もある」融通の利くものと捉えられている。
  俳句が「自己表現」であるべきでない理由は、それが作者の自己愛の押し付けになるから、だろう。自作を通して、自分の人生に注目して欲しい、という願望を、句会に参加している他の人々に強いてしまうからだろう。それは快くない。周りの人々にとっても、本人にとっても。

「バイオ込み」の鑑賞にハマってしまう人って、自分の作品も自分のバイオ(ライフストーリー)を踏まえて作ってしまい、自分のバイオを踏まえてよんでもらいたがる(中略)つまりポエム俳句を量産してしまう傾向がある

「俳句の作者になれば、何者かになれる」「私の作品も私の人生や思いを踏まえて読んでもらえる」「俳句を作れば私の人生や思いを他人に承認してもらえる」というのは、決定的な勘違いなんだ。
  ポエマーの人が考えている「何者かになる」って、つまり「この俳句の作者の人生ってこうなんだー」と読者に汲み取ってもらう、ってことなんだろうね。

そういう人たちは言葉それ自体を愛しているのではなく、言葉にまつわる物語の主人公としての自分を愛している。

  私は「ライフストーリー」に固執する作者は、“自分は幸福な人生を送っている”と余り感じていない人なのではないか、と思ってしまう(全くの憶測だ。というか自戒を込めて言っている)。“私はこんなに頑張っているのに(こんなに苦しんでいるのに)、なぜ誰も認めてくれないのか”という不遇意識が、俳句を通じて他者の「承認」を求めるところにつながっているのでは、と思う。
  もちろん、自分の苦しみを他者に認めてもらうのは、生きる上で必要なことだ。だが、何もその手段が俳句や句会でなくてもいい。というか、たかだか17文字しかない俳句という形式は、自分の人生に共感してもらえるような内容を盛り込むには、短すぎる。
  限られたスペースで言葉の取捨選択を重ねる中で、“私の思い”は言葉の自己運動に引きずられて、想像していなかった形に変貌を遂げる。そこで“不遇だ”と思っていた満たされない自己愛は、閉じた“思い”の循環から解放されるのではないか。
  ずいぶん自分に引きつけた読みをしたが、そんな〈俳句〉の可能性を感じさせる興味深い一冊だった。