小川軽舟『俳句と暮らす』

 読了日2023/02/22。

 1961年生まれの筆者は本書刊行時(2016)55歳。団塊世代の後発で、就職時を新卒で83年と想定すると、バブル世代の恩恵は受けなかった。ただ就職氷河期(1991~)には既に30代で、職場では若手から中心となっていただろう。

 年譜の詮索をしたのは、会社勤めがやはりその日常の中心となっているからだ。

 「サラリーマンあと十年か更衣」。

 その長い生活は、異常な好景気や不況の上下動に左右されず、手堅く生活を積み重ねた歳月だと思う。「結婚して二十年余り、基本的に台所には入らなかった」(p.5)とは意外。夫=仕事、妻=専業主婦というモデルがまだ機能し得た世代なのだろう。「この本の読者は、中公新書のイメージからして既婚男性が多いのではないかと思う」(p.63)とあるのも、サラリーマン男性が通勤時に読むイメージだ(中公新書発刊は筆者誕生の翌62年)。

 だが本書が興味深いのは、そのような平均的サラリーマンの生活(三大国民的アニメで描かれ続けるような)を送ってきた筆者が、単身赴任・自炊・妻との距離感などの変化を淡々と受け入れ、観察し、その境涯を句にしている点だ。

 「レタス買へば毎朝レタスわが四月」「われを待つ日傘の妻よ鳩見つめ」。

 「解熱剤効きたる汗や夜の秋」。独り身では病気も恐い。普段は忘れている死の想念も襲ってくる。だから

 「死ぬときは箸置くやうに草の花」

と願う。

 本書では「阪神・淡路大震災」(p.98)も「東日本大震災による原発事故」(p.28)も僅かに触れるのみだが、それを踏まえると「俳句は忘れ去っていく日常のなんでもない記憶を甦らせてくれるものだ」(p.188)「忘れてしまって困るような一日ではない。しかし、その一日を私たちはある充実感をもって生きていたのである。それが日常というものだ」(はじめに)という言葉が一層響く。

 私の句作は季語が決まらず苦心するが、筆者は季語の重要性も教える。「俳句を作っていると、立春になったらもう春なのである。そこから後戻りすることはない」「俳句が季語を必要とするのは、俳句が後戻りすることなく進む時間と四季を繰り返して循環する時間の交わりに生まれる詩だからだ(中略)人の一生を限りあるものにする時間は無情なものだが、四季を繰り返しながらこの世はずっと続いてゆく。永遠にめぐる時間を私たちに束の間夢見させてくれるのが俳句だ」(p.82-4)。だから季節の訪れを「確かに感じよう」と努めるのが大切なのだ。