白石嘉治「「もの自体」へ」(『図書新聞』2018・1・20)

実践 日々のアナキズム――世界に抗う土着の秩序の作り方

実践 日々のアナキズム――世界に抗う土着の秩序の作り方

 ジェームズ・C・スコット『実践 日々のアナキズム』Two Cheers for Anarchism:Six Easy Pieces on Autonomy,Dignity,and Meaningful Work and Play(2014)の書評文より、印象深かった個所を引用する。

国家や経済のもたらす災いはつねに法律によって正当化されている。徴兵はもとより、強制収容所ですら合法的だった。それゆえ正義の行使とは法を破ることにほかならない。だが、法の遵守が習慣となると、いざというときに「足がすくんで」しまう。だからこそ、法を破ることになれていなければならない。信号無視などの軽微な違法行為の日常的な実践をつうじて、来たるべき正義の行使にそなえなければならない。スコットはそれを「アナキスト柔軟体操」とよぶ。赤信号で一歩ふみだし、路上で煙草に火をつける。

 子供連れの手前たとえ通行車がなくとも青信号に変わるのを待ち、バス停の受動喫煙に思わず眉をしかめてしまう私は、必ずしも書評者の後半の意見には全面的賛同しないものの、それでも赤字ボールドで示した部分には共感を覚える。
 そして本書は未読だが、アナキズム繋がりで大杉栄の文章を思い出した。スコットは人類学者だそうだが、大杉も自説を補強するのにしばしば人類学的知見を援用している。

 奴隷は、この残酷な主人の行いをもあえて無理とは思わず、ただ自分はそう取り扱わるべき運命のものとばかりあきらめている。そして社会がもっと違った風に組織されるものであるなどとは、主人も奴隷も更に考えない。
 奴隷のこの絶対的服従は、彼らをしていわゆる奴隷根性の卑劣に陥らしむるとともに、また一般の道徳の上にも甚だしき頽敗を来さしめた。いったい人が道徳的に完成せられるのは、これを消極的にいえば、他人を害するような、そして自分を堕落さすような行為を、ほとんど本能的に避ける徳性を得る事にある。しかるに何らの非難または刑罰の恐れもなく、かつ何らの保護も抵抗もない者の上に、容赦なくその出来心の一切を満足さすというが如きは、これとまったく反対の効果を生ずるのはいうまでもない。飽く事を知らない暴慢と残虐とが蔓る。
 かくして社会の中間にあるものは、弱者を虐遇する事に馴れると同時に、また強者に対しては自ら奴隷の役目を演ずる事に馴れた。小主人は自らの奴隷の前に傲慢なるとともに、大主人の前には自らまったく奴隷の態度を学んだ。
 強者に対する盲目の絶対の服従、これが奴隷制度の生んだ一大道徳律である。
(中略)
 野蛮人のこの四這い的奴隷根性を生んだのは、もとより主人に対する奴隷の恐怖であった。けれどもやがてこの恐怖心に、更に他の道徳的要素が加わって来た。すなわち馴れるに従ってだんだんこの四這い的行為が苦痛でなくなって、かえってそこに或る愉快を見出すようになり、ついに宗教的崇拝ともいうべき尊敬の念に変わってしまった。
(中略)
 主人に喜ばれる、主人に盲従する、主人を崇拝する、これが全社会組織の暴力と恐怖との上に築かれた、原始時代からホンの近代に至るまでの、ほとんど唯一の大道徳律であったのである。
 そしてこの道徳律が人類の脳髄の中に、容易に消え去る事の出来ない、深い溝を穿ってしまった。服従を基礎とする今日の一切の道徳は、要するにこの奴隷根性のお名残である。
(「奴隷根性論」)

 被征服階級のいわゆる教育という事が行われた。両階級の地位の不平等を維持して行くためには、もともと被征服階級の方があらゆる点において劣等種族であるという観念を、是非とも被征服階級自身の心中にしかと植え付けておかねばならぬ。もし被征服階級が些かでもこれに疑惑をさしはさむようになれば、それは社会の安寧と秩序との大いなる紊乱を生ずるもととなる。そこでこの観念を強制するために、諸種の政策が行われた。いわゆる国民教育の起源にしてかつ基礎たる組織的瞞着の諸種の手段が行われた。
(中略)
 社会は進歩した。従って征服の方法も発達した。暴力と瞞着との方法は、ますます巧妙に組織立てられた。
 政治! 法律! 宗教! 教育! 道徳! 軍隊! 警察! 裁判! 議会! 科学! 哲学! 文芸! その他一切の社会的諸制度!!
(中略)
 われわれをしていたずらに恍惚たらしめる静的美は、もはやわれわれとは没交渉である。われわれは、エクスタシーと同時にアンツゥジアスム〔※熱狂〕を生ぜしめる動的美に憧れたい。われわれの要求する文芸は、彼の事実に対する憎悪美と反逆美との創造的文芸である。
(「征服の事実」)

 大杉は権力による支配が内面にまで及ぶものであることを重視し、人々がその事実を自覚すると共に、そこから解放されるべきだと考えた。それが「生の拡充」「生の創造」「実行」「道徳の創造」であり、有名な「諧調は偽りである。真はただ乱調にある」(「生の拡充」)という言葉も、制度の内部に捕らえられ、安定してしまった自己を攪乱する芸術の働きを述べたものに他ならない。

 われわれが自分の自我――自分の思想、感情、もしくは本能――だと思っている大部分は、実に飛んでもない他人の自我である。他人が無意識的にもしくは意識的に、われわれの上に強制した他人の自我である。

 感情とはきわめて縁の近いわれわれの気質も、多くの場合に、この征服の事実によって甚だしく影響されている。もっと根本的にいえば、感情や気質の差別を生ぜしめるわれわれの生理状態そのものまでが、この征服の事実によって等しく甚だ影響されている。

 かくしてわれわれは、われわれの生理状態から心理状態に至るすべての上に、われわれがわれわれ自身だと思っているすべての上に、更に厳密な、殊に社会学的の、分析と解剖とを加えなくてはならぬ。そしていわゆる自我の皮を、自我そのものがゼロに帰するまで、一枚一枚棄脱して行かなくてはならぬ。

 棄脱は更生である。そしてその棄脱の酷烈なほど、それだけその更正は偉大である。(「自我の棄脱」)

大杉栄評論集 (岩波文庫)

大杉栄評論集 (岩波文庫)

 大杉は「実行に伴う観照がある。観照に伴う恍惚がある。恍惚に伴う熱情がある。そしてこの熱情は更に新しき実行を呼ぶ。そこにはもう単一な主観も、単一な客観もない。主観と客観とが合致する。これがレヴォリュショナリーとしての僕の法悦の境である。芸術の境である」(「生の拡充」)と述べた。
 これも言葉だけからは神秘主義的な主張のように見えるが、新しい実践行為によって新しい認識が開かれると述べているに過ぎない。そして様々な制度によって覆われていた社会や自己を見る目が改められた時、そこには新しい認識による「恍惚」(エウレカ!という喜び)がある。
 世の中で「正しい」とされていることを無批判に受け取るのを止め、一歩異なる方向へ踏み出すことで、今までとは違う風景が見えるかも知れない。
 スコットの原著は2014年で、大杉と約100年の差があるが、スコットの著作から大杉の言わんとしたことを照らし出せるかも知れないと思い、期待している。