サイード「受肉の迷宮――モーリス・メルロ=ポンティ」

  メルロ=ポンティ論。「序」では「メルロ=ポンティにわたしが感銘を受けたのは、絶対原理なき現実、絶えず経験される一瞬一瞬の統合としての言語、物質の世界に一度かぎり具現化される精神、それらが織りなす困難な状況――この状況のなかで、わたしたちは、どんなにあがこうとも、「自分の精神なり自由な状態を、面と向かって直視することはない」――を、メルロ=ポンティだけはもっともよく理解していると思えたからである」(p.15)と述べている。
  ここからは、故国喪失者の不確定な日常生活における経験を捉える道具として、メルロ=ポンティの思想を読み直す試みが見られるだろう(解題では「エグザイルとしての知識人・思想家としての(中略)メルロ=ポンティの立ち上げ」と表現されている)。

  まず興味を引いたのが、20世紀初期のフランスの思想では、「現実の回路」「生きられた生活」「具体的状況」へと向かう動きがあったという指摘。それは「抽象論や厳密な方法論には無関心」な、「反理論的」であることを目指すものであった。それは1940年の、ドイツに対するフランス降伏により、国民的な態度にまでなる。その契機には、マルクスフッサールハイデガーらドイツ系の思想家の影響があった。

いかなる哲学的企図もその出発点は人間自身の生活であること、人間の生活は、検討し尽くされることはなく、適当な理論的分類項目にまとめられるものでもないと、そう自覚すること。こうした姿勢から派生したのが、人間経験における言語の中心的役割に着目する姿勢であって(中略)哲学は、経済的・行動論的・心理的・人間の研究から、言語中心的な人間の研究へと移行したのだ。いまや内在性――人間の生きられた現実のなかに埋め込まれた意味――が、フランス哲学の中心テーマになり、モーリス・メルロ=ポンティの仕事のなかで、それまで類を見ないほど豊かで熱のこもった複雑な扱いを受けることになった。(p.36-37)

  メルロ=ポンティの哲学は、サルトルによれば「高みから見下ろすような哲学」への嫌悪を主潮としている(p.38)。彼の哲学は、超越的な高みから世界を俯瞰的に裁断するのではなく、

わたしたちは世界について考える前に、世界のなかにいて、世界の一部になっているという立場(p.38)

に基づいている。気がつけば、世界のまっただ中に投げ込まれているというようなありようだろう。その中で、重要な役割を果たすのが「知覚」である。メルロ=ポンティは、私たちが見過ごしがちな「知覚」の働きが持つ重要性に目を向けさせる。

知覚は(中略)重要で複雑なプロセスである。なぜなら知覚によって、わたしたちは世界とのつながりをふたたび主張できるわけで、知覚はわたしたちの思考と意味付与活動に対し基盤を提供するからである。(中略)彼のねらいは、経験を、その起源における「ナイーヴな」レヴェルにおいて、つまり科学が洗練されたかたちで浸蝕した層よりも古層において、また浸蝕以前のかたちのままで、再発見することであった。(p.38-39)

  こうして私たちは、彼の著作を通して、「人間に関する新たな真理」を獲得するのではなく、「みずからの経験そのものへ向かうよう促される」(p.41)。知覚経験を考える際、重要なのが「身体」「肉体」の働きである。

  経験論は、現実における観察と実験の有効性を論じながらも、観察によって得られた情報をひとつにまとめ、意味を与える段になると経験外の概念に頼らざるをえなくなる。(中略)観念論は、わたしたちが絶対に経験によってもちえないなんらかの領域に賊する抽象的な総体が、すべてに先行すること、そして精神が物質を超えることを教える。この信念を、メルロ=ポンティは打破する。わたしたちの経験において肉体が果たす決定的に重要な役割に着目することで。真理は(中略)現実的なものにもとづいている――それが、わたしたちの世界の知覚なのである。(p.40)

  メルロ=ポンティが証明したのは、世界を知るためにわたしたちが自分の身体を使うということだ。空間と時間は抽象体ではなく、わたしたちがそこに取り憑き居住する準実体である。(p.44)

  私たちは、自己の身体を介して、自分たちを取り巻く現実世界を意味づけ、分節化している(市川浩のいう「身・わけ」)。その絶えざる分節と総合が、私たちの生の経験だといえるだろう。  

わたしたちの生は、あらゆる面において、存在という粗野な事実に意味を与える方法そのものである。(p.43)

絶対的なものがない諸現実のあいだで試行錯誤をくり返す。(p.40)

世界がいかに存在するかではなく、世界が存在すること。それゆえ、メルロ=ポンティに言わせれば、「すでに存在していることを表現することは、終わりなき仕事である」。(p.45)

  このような個々人の分節作用は、個々人の経験で終わらずに、人々の間で共有され、経験の「厚み」を形成していく。その媒体の一つが言語である。言語は、現実を反映したものでなく、ある人間の現実の分節の仕方を表している。

言語(あるいはフランス人が「言語」と区別し、また人間の分節化のすべての形式を示唆すべく「言語活動」と呼ぶもの)は、人間の主要な表現様式(p.48)

国民言語のそれぞれは、また類推して個人の個性的表現のそれぞれは、間接的言語であり、事物そのものを指示しているのではなく、その言語を使用する人間の生きられ組織された現実の総体である複雑な構造(中略)を指示している。(p.49)

  このように私たちの「生」は、言語・親族体系・神話・政治思想・日用品にいたるまで、様々な分節作用によって、現実に意味を与え続ける行為といえる。この過程にはもちろん終わりがなく、私たちは現実を「より多く見る」ことで、新たな意味を汲み出し、再活性化することができるのである。

わたしたちの生は、あらゆる面において、存在という粗野な事実に意味を与える方法そのものである。(p.43)

「すでに存在していることを表現することは、終わりなき仕事である。」(p.45)

占領下パリの思想家たち―収容所と亡命の時代 (平凡社新書 356)

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