絶望の中の希望:V・E・フランクル『夜と霧』

夜と霧 新版

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筆者の態度

ここに語られるのは、何百万人が何百万通りに味わった経験、生身の体験者の立場にたって「内側から見た」強制収容所である。だから、壮大な地獄絵図は描かれない。(中略)わたしはおびただしい小さな苦しみを描写しようと思う。強制収容所の日常はごくふつうの被収容者の魂にどのように映ったかを問おうと思うのだ。(中略)またここでは、偉大な英雄や殉教者の苦悩や死は語られない。語られるのは、おびただしい大衆の「小さな」犠牲や「小さな」死だ。(p.1-2)

個性を奪われ、数字として管理されるだけの人間

だれかが抹殺をまぬがれれば、だれかが身代りになることがはっきりしていた。この際、問題なのは数だけ、移送リストをみたす被収容者の数だけなのだ。一人ひとりはまさにただの数字であって、事実、リストには被収容者番号しか記入されなかった。
  たとえばアウシュヴィッツでは、被収容者は到着するとすぐ、持ち物をすべて取りあげられ、身分を証明するものをいっさい失うのだが、それでも名前や職業はあった。それをいろいろ利用することも、あるいは可能だったかもしれない。しかし被収容者を(たいていは入れ墨で)識別でき、したがって収容所員が関心を示すのは、被収容者番号だけだ。(p.4)

  収容所では、個々人の命の価値はとことん貶められた。(中略)人間は被収容者番号をもっているかぎりにおいて意味があり、文字通りただの番号なのだった。死んでいるか生きているかは問題ではない。「番号」の「命」はどうでもよかった。番号の背後にあるもの、この命の背後にあるものなど、これっぽっちも重要ではなかった。ひとりの人間の運命も、来歴も、そして名前すら。(p.87)

全員、身元を証明するものをとっくに失っており、とにかく息をしている有機体のほかには、これが自分だと言えるものはなにひとつないこの状況(p.88)

大多数の被収容者は、言うまでもなく、劣等感にさいなまれていた。それぞれが、かつては「なにほどかの者」だったし、すくなくともそう信じていた。ところが今ここでは、文字通りまるで番号しかないかのように扱われる。(p.105)

被収容者達の心理=生き延びるための「無関心」

  アウシュヴィッツでもこれと同じような、世界をしらっと外からながめ、人びとから距離をおく、冷淡と言ってもいい好奇心が支配的だった。さまざまな場面で、魂をひっこめ、なんとか無事やりすごそうとする傍観と受身の気分が支配していたのだ。(p.25)

正常な感情の動きはどんどん息の根を止められていった。(中略)嫌悪も恐怖も同情も憤りも、見つめる収容者からはいっさい感じられなかった。苦しむ人間、病人、瀕死の人間、死者。これらはすべて、数週間を収容所で生きた者には見慣れた光景になってしまい、心が麻痺してしまったのだ。(p.34-35)

  感情の消滅や鈍麻、内面の冷淡さと無関心。(中略)この不感無覚は、被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾なのだ。(p.37)

感情の消滅は、精神にとって必要不可欠な自己保存メカニズムだった。現実はすっかり遮断された。すべての努力、そしてそれにともなうすべての感情生活は、たったひとつの課題に集中した。つまり、ただひたすら生命を、自分の生命を、そして仲間の生命を維持することに。(p.45)

  収容所暮らしが長い被収容者のこうした非情さは、いかに生きのびるかというぎりぎり最低限の関心事に役立たないことはいっさいどうでもいい、という感情のあらわれだ。被収容者は、生きしのぐこと以外をとてつもない贅沢とするしかなかった。(p.54)

支えとしての内面生活

繊細な被収容者のほうが、粗野な人びとよりも収容所生活によく耐えたという逆説(p.58)

  収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。(p.61)

わたしは知り、学んだのだ。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「現存」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。愛する妻がまだ生きているのか、あるいはもう生きてはいないのか、まるでわからなかった。(中略)それはいっこうに、わたしの愛の、愛する妻への思いの、愛する妻の姿を心のなかに見つめることの妨げにはならなかった。もしもあのとき、妻はとっくに死んでいると知っていたとしても、かまわず心のなかでひたすら愛する妻を見つめていただろう。(p.62-63)

一心不乱に、想像を駆使して繰り返し過去の体験に立ち返るのだ。たいした体験ではない。過去の生活のありふれた体験やごくささいなできごとを、繰り返しなぞるのだ。(中略)自分を取り巻く現実から目をそむけ、過去に目を向けるとき、内面の生は独特の徴を帯びた。世界も今現在の生活も背後にしりぞいた。心は憧れにのって過去へと帰っていった。
  被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった。(中略)わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だったのに――あるいはだからこそ――何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。(p.64-65)

  「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
  わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実のなかへと救いあげられている。それらもいつかは過去のものになるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。なぜなら、過去であることも、一種のあることであり、おそらくはもっとも確実なあることなのだ。(p.138)

わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる。いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。(p.144-145)

  収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にないことを知っていた(中略)わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは、幸せではなかった。(中略)そしていつか、解放された人びとが強制収容所のすべての体験を振り返り、奇妙な感覚に襲われる日がやってくる。収容所の日々が要請したあれらすべてのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、われながらさっぱりわからないのだ。(p.156)