国家による教科書介入の第一歩

  弁護士・宮武嶺氏のブログ「Everyone says I love you !」で、最近の教科書をめぐる無視できない動向が指摘されていた。

自民党の「教科書法」は教科書の内容に直接介入するもので表現の自由、教育の自由を侵害する - Everyone says I love you !

  自民党の一部会が「教科書法」(仮称)制定に向けて、今月内に「中間とりまとめ案」を首相に提出することが決まった。それに先駆け、5月中には東京書籍、実教出版、教育出版の大手三社を呼び、教科書の編集方針を尋ねたとのこと。
  担当しているのは、自民党教育再生実行本部の「教科書検定の在り方特別部会」。主査の萩生田光一衆院議員は、「何を教えてほしいかを明確に教科書会社に伝達し、それにのっとった教科書を作ってもらうようにしたい」と記者団に語った。
  この部会が設けられた経緯と、教科書会社との会合の様子について、リンク先の朝日新聞(2013・5・30)から引用する。

教科書検定をめぐっては、安倍晋三首相が4月に国会で「検定基準に教育基本法の精神が生かされていない」などと答弁し、制度見直しを示唆。この後、党内に部会が設けられ、識者から意見を聴くなどして検討が続いている。

  「南京事件の犠牲者数は事件自体がなかったという説も含めてさまざまある。なぜ、『十数万人』や『30万人』という説しか紹介しないのか」「慰安婦について、旧日本軍の強制性をうかがわせる表現が強い」

  部会幹部などによると、この日の会合は非公開で約1時間20分続き、そうした質問が議員から相次いだという。竹島などの領土問題、原発稼働の是非に関する記述についても「経緯の説明が足りない」「偏っている」などの意見が出た。

  出版社側は、「学習指導要領にのっとった記述をし、検定も通っている」「学説の状況から『定説』と考えられる事柄を記述している。執筆者も専門的な知識とバランスを備えた人を選んでいる」などと説明。3社幹部らは会合後の取材に対し、一様に硬い表情で「ノーコメント」などと言葉少なだった。

  「指導要領の範囲を狭めれば、記述も正せるのではないかと感じた」。萩生田氏は会合後、報道陣にそう感想を話した。

  自民党がとくに問題視するのは、日中戦争や太平洋戦争などをめぐる「自虐史観」と呼ぶ記述。犠牲者数をめぐって諸説ある南京事件などを念頭に、「学説で確定したこと以外は本文に記述しない」などの項目を参院選公約に盛り込む検討をしている。検定基準の中でアジア諸国への配慮を義務づけた「近隣諸国条項」の廃止も掲げる方針だ。

以下のブログでも、かなり危機的な動向として取り上げられている。
秋原葉月氏のブログ「Afternoon Cafe」
戦前の国家統制教育再び - Afternoon Cafe
なんでやねん五郎氏のブログ「大阪弁で世情を語る」
こんなん、「国定教科書」やん! ( その他政界と政治活動 ) - 大阪弁で世情を語る - Yahoo!ブログ

なんでやねん五郎氏は、次のような鋭い指摘をしている。

今回の自民党の部会が出してきた内容のミソは何かというたら、それは
「政府が主導する仕組みでありながら、政府がその責任から逃れる巧妙な仕掛け」
…ということですよね
で、こういう仕掛けを提案されると、ぼくは、あのいわゆる「従軍慰安婦制度」を思い出してしまうんです
そやかてね、慰安婦制度が当初問題になったとき、日本政府はなんて言うて責任逃れしてました?
「あれは政府(日本軍)がやったんじゃない、民間の業者がやったことだ…(だから政府に責任はない)」
…って、言うてましたよね
(だから、ぼくの目には、歴史教科書の問題と慰安婦制度の問題の政府の対応が二重写しになる…)

  上の萩生田議員の「指導要領の範囲を狭めれば、記述も正せる」という発言から分かるように、最初から国家が統制に手を下すことはない。「諮問」や「指導」という形で、予め定めた方針に従わなければ不利益を被るように民間を誘導し、時にはその意見を聞き、取り込むような姿勢さえ見せる。(私は戦時下に作家達を取り込んだ文芸懇話会や日本文学報国会を思い出した)
  もう一つ恐ろしいのは、私達も含めた一般人や大手マスメディアの反応が鈍いということ。秋原葉月氏は、この一連の記事を報道する朝日新聞の論調を「悠長」だと評している。客観的な事実は伝えるが、「その出来事はどのような意味を持つのか」という判断が欠けている、ということか。だから、それを受け取る私達も、日々の大量の情報に紛れて、ことの重大さを見落としてしまう。

  『The Big Issue』215号で、伊藤悟氏が最近のテレビ報道の傾向について、次のように述べているのも考えあわせるべきだ。

とにかくテレビの記者たちの感覚が鈍い。(中略)現代の記者たちは、権力をもった者をチェックすることがジャーナリズムの役割の一つだと考えていない(中略)デモなどの抗議行動そのものに対して取材する側にネガティブなイメージがあり、いつの間にか「おかみ」と同じ発想で取材をしている記者が増えている(中略)生活保護の不正受給問題についても、一般市民の生活をじっくり取材した経験もなく、強者の理屈で事態を判断し、貧困など弱い立場に置かれた人間に対する想像力がきわめて弱い記者ばかりになっているから、単なるバッシングになってしまう。(「テレビうらおもて」)

  私達が想像しているより、はるかに早く、大きく事態は進んでいる。身の回りの情報や言葉が、徐々に現実を捉えきれない平板なものになり、代わって単純化され恫喝を含んだ居丈高な声が充満しつつある。こんな時だからこそ、足を止めて、静かに考えるべきだ。

テレビはなぜおかしくなったのか

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