ずいぶん長くかかったが読了。全体に明るいトーンの作品や、意欲的な試みのものが多く、中期の代表作「走れメロス」「駆込み訴え」や、女性一人称語りの「皮膚と心」、メタフィクション的な「女の決闘」が収められている。
- 作者: 太宰治
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1988/10/01
- メディア: 文庫
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個人的に笑いのツボを突かれたのが「畜犬談」。犬嫌いの主人公が、噛まれぬよう警戒に努めたあげく、とうとう犬に好かれてしまったという件とか、「噛まれたら病院に三、七、二十一日間通わなければならぬ」という表現の繰り返しに噴き出してしまった。
もう一つ面白かったのは「春の盗賊」である。「女の決闘」と同時期に発表されたこの小説は、同様にフィクションを創るという行為自体を、小説の中に取り込んでいる。その取り込み方が、ぐだぐだというか、照れ笑いを含んだ語り口でなされているのだ。
最初に、作中の「私」と作者自身を同一視する私小説的な文学観への批判が、大上段に振りかぶった文体で主張される。
私的な生活に就ての弁明を、このような作品の上で行うことは、これは明らかに邪道のように思われる。芸術作品は、芸術作品として、別個に大事に持扱わなければ、いけないようにも思われる。
いったい、小説の中に、「私」と称する人物を登場させる時には、よほど慎重な心構えを必要とする。フィクションを、この国には、いっそうその傾向が強いのではないかと思われるのであるが、どこの国の人でも、昔から、それを作者の醜聞として信じ込み、上品ぶって非難、憫笑する悪癖がある。
そして自作では、それへのアンチテーゼとして、
「私」という主人公を、一ばん性のわるい、悪魔的なものとして描出しようと試みた。
とする。ところが、この試みについて、語り手は
フィクションを、フィクションとして愛し得る人は、幸いである。けれども、世の中には、そんな気のきいた人ばかりも、いないのである。
と、だんだん腰の引けた姿勢になる。なぜなら、余りに真実らしく描かれた「私」についてのフィクションは、読者が真実と取り違えてしまう可能性があるからである。
私は、実はこの物語、自身お金に困って、どろぼうを致したときの体験談を、まことしとやかに告白しようつもりでいた。それは、確かに写実的にて、興深い一篇の物語になったであろう。私のフィクションには念がいりすぎて、いつでも人は、それは余程の人でも、あるいは? などと疑い、私自身でさえ、あるいは? などと不安になって来るくらいであって、そんなことから、私は今までにも、近親の信用をめちゃめちゃにして来ている。私などは、無実の罪で法廷に立たせられても、その罪に数十倍するくらいの、極刑に価いするくらいの罪状を、検事にせつかれて、止むなく告白するかも知れない。もとより無形の犯罪であるが、そのときの私の陳述が、あまりにも微に入り細をうがって、いかにも真に迫っているものだから、検事はそれにて罪状明白、証拠充分ということになって、私は、ばかを見るかも知れない。
ここの「私自身でさえ、あるいは? などと不安になって来る」というのが、とぼけた表現で可笑しい。
それやこれやで、私は、私自身、湖畔の或る古城に忍び入る戦慄の悪徳物語を、断念せざるを得なくなった。(中略)いい気になって、れいの調子づいて、微にいり細をうがってどろぼうの体験談など語っていると、人は、どうせあいつのことだ、どろぼうくらいは、やったかも知れぬと、ひそひそ囁き合って、私は、またまた、とんだ汚名を着せられるやも、はかり難い。それゆえ、このような物語は、私が、もう少し偉くなって、私の人格に対する世評があまり悪くなく、せめて私の現在の実生活そのままを言い伝えられるくらいの評判になったとき、そのときには私も、大胆に「私」という主人公を使って、どのような悪徳のモデルをも、お見せしよう。
こうして語り手は当初企てていた「私自身」の「悪徳物語」を「断念」する。作者が、本当に「湖畔の或る古城に忍び入る戦慄の悪徳物語」をプランしていたかというと、これは怪しい。読者を前に、意図して脱線を演じて見せたというのが正しいのではないだろうか。以上を伏線として、次の宣言が続く。
次に物語る一篇も、これはフィクションである。私は、昨夜どろぼうに見舞われた。そうして、それは嘘であります。全部、嘘であります。そう断らなければならぬ私のばかばかしさ。ひとりで、くすくすわらっちゃった。
主人公の語り手は、今でもよくある「このドラマはフィクションであり、実在の人物・団体とは……」という断り書きを記しながら、「フィクション」を、わざわざ「これはフィクションである」と力んでいる自分の姿にふと気づき、「何と馬鹿馬鹿しく無意味なことをやっているのだろう」と笑ってしまう。
考えてみると、私小説を敢然と否定し、純粋なフィクションを志向したはずの「私」が挫折したのは、「どうせあいつのことだ」という「世評」の声に屈した、あるいは気兼ねしたからである。そしてこの「世評」は、当然、作者・太宰治に対する悪評を、読者に想像させるだろう。
つまり、「芸術作品は、芸術作品として、別個に大事に持扱わなければ、いけない」という語り手の断案とは別に、作品自体は、作中の「私」と作者・太宰を同一視するよう、誘っている。それによって、初めて「ひとりで、くすくすわらっちゃった」という滑稽味あふれるオチにいたるのである。
このように作品後半は、あらかじめ「嘘」と断り書きが付されているのだが、巧みな語りに乗せられて、その「嘘」の世界に引き込まれてしまう(これがまた、主人公が盗賊相手に自己の小説プランを語るという場面で意味深である)。