句会第四回――付けたり:映画「恋は五・七・五!」感想

  季題は「桜」。オーソドックスだけど、いざ作るとなると難しい。
    入園日爺は桜も連れ帰る
  →助詞「も」が効いているとの評。
    図書館の余熱冷まして白木蓮
  →本好きらしい句とのこと。県立図書館前の風景ですね。
    啄木忌隣で家を売る電話
  →「○○忌」という季語は多いが、その忌日の人物のイメージと、句の内容とを即かず離れずに作るのが難しいとのこと。
    万愚節かまって欲しいうそもある
  →彼氏にうそつく彼女になりすまして作りました。
    永日にコップ半分ほど眠る
  →季語が動かない句だと誉められました。


  句会をする人はよく知る通り、俳句はゲーム性の強い文芸である。点を競うだけでなく、自他の句からいかに豊かに意味を読み取れたか、を競うものでもある。
  本来個人的な営みとされる「読む」という行為のプロセスが、ディスカッションの形で公共の場に開かれる。時には他人の読み落としていた意味を拾い、また時には他人の読みと合奏され、新しい解釈を生み出すこともある。
  つまり句作と解釈という、言葉を使った丁々発止の遣り取りが見られる点で、いわゆるジャンル物(カードバトルとかミニ四駆とかのホビー物、古いところでは「ミスター味っ子」など料理対戦物)の題材にしやすいのではないかと思っていた。
  ・・・で、ないかと探していたらあった。

  子規の故郷・松山で実際に行われている「俳句甲子園」が主な舞台である。
  静岡県の港町にある松尾高校は、学区再編により数年後に統廃合されることになっていた。そこで、せめて今の内に校名を高めておきたいという校長の意志で、様々な全国大会に出場することになる。
  冴えない国語教師・高田に割り当てられたのは俳句甲子園出場。彼はさっそく生徒集めに奔走する。
  その中に高山治子もいた。帰国子女の彼女は、英語は得意だが日本語は苦手で、日本社会にもうまく溶け込めない。そこで日本語の勉強と併せて日本文化に親しんでもらうため、担任のヨーコ先生から半ば強制的に参加させられたのだ。
  他に集まったメンバーは、俳句好きの野球部万年補欠・山岸、写真部で治子に恋する土山、同じくクールな治子に一目惚れしてウクレレが得意な弘美、チアガール部を強制退部させられ、校舎から飛び降りようとした時に止められたのがきっかけで、土山に思いを寄せるマコ。
  だが山岸を除けば、みな初心者ばかり。肝心の山岸も極度の上がり症と来ている。早速、昨年度優勝校で、本年度も優勝候補の古池高校俳句部と練習句会するが、惨憺たる結果だった。
  そんな中、土山は少しずつ治子への気持ちを募らせていく。部員たちの様々な思いが交錯する中、果たして俳句甲子園を勝ち進むことはできるのか――。

  物語としては基本的な要素を全部押さえてあるように思うが、優勝候補である古池高校が、余りに分かりやすい“敵キャラ”すぎて物足りなかった。
  みんな眼鏡、偏差値高そうで、揃いの「句」のTシャツ着て、芭蕉の俳句をかけ声にしてトレーニングするんだから!!
  練習句会でボロボロに打ち負かされ、意気消沈する部員たちに、高田先生は言う。

古池高校の俳句は、確かに上手でした。
でも、僕はあんな練習が楽しいとは思いません。
あんな練習を、君たちにして欲しくない。
楽しんでください。そうでなければ、意味なんてないんだ。
うまく詠もうなんで、しなくてもいいんです。
楽しんで詠んでください。
楽しんで詠んだ俳句は、しっかり伝わるはずです。

  こうして物語は、楽しんで素直に作った俳句と、老練だが技巧に走りすぎた俳句との対立になる。
  高田先生の言葉はもっともだと思うが、俳句を競う面白さは、物語で描かれたより、もっと先のところにあるとも思う。
  一句を前に、どれだけ楽しんでみせるか、が腕の見せ所だし、逆に句作する場合は、楽しめる余地があるよう心がけて作る。(これも高田先生の言ったとおり)「長いお話の導入部分であって、だからこそ謎と期待感があふれてくる」。
  つまり俳句は、言葉で楽しむ技巧、楽しませる技巧を競うものだ。
  その意味では、俳句甲子園のディスカッションの場面で、ほとんどの相手チームが、主人公サイドに対して、俳句のルールに抵触しているといった、非難や否定しかしないように描かれているのは、残念なことだった。

  ともあれ、エンターテインメントの題材として俳句を扱った点で、注目すべき作品だと思う。個人的には土山の「男子高校生の日常」が面白かった(「かもめ食堂」の荻上直子監督なのに・・・)。