木々高太郎「文学少女」

  『太宰治全集2』を途中まで読んでいるが、この中に「女生徒」(『文学界』昭14・4)という作品がある。主人公は女学生で、一昨年に父が亡くなり、現在は母と二人暮らしをしている。太宰の中で一系譜をなす、女性一人称独白体で書かれた小説である。
  この主人公が、読書する女性、いわゆる「文学少女」として描かれているのが面白い。「自分の顔の中で一ばん眼鏡が厭なのだけれど」とあるように、“眼鏡っ娘”でもあるのだが、彼女は自分を分析して次のようにいう。

自分から、本を読むということを取ってしまったら、この経験の無い私は、泣きべそをかくことだろう。それほど私は、本に書かれてある事に頼っている。一つの本を読んでは、パッとその本に夢中になり、信頼し、同化し、共鳴し、それに生活をくっつけてみるのだ。また、他の本を読むと、たちまち、クルッとかわって、すましている。人のものを盗んで来て自分のものにちゃんと作り直す才能は、そのずるさは、これは私の唯一の特技だ。本当に、このずるさ、いんちきには厭になる。(中略)ほんとうに私は、どれが本当の自分だかわからない。読む本がなくなって、真似するお手本がなんにも見つからなくなった時には、私は、一体どうするだろう。

  「どれが本当の自分だかわからない」という述懐は、主人公に仮託した作者自身のもののようにも読めるし、また「人のもの」を「自分のものにちゃんと作り直す才能」というのは、古典や他人の日記を元に創作した後年の太宰自身の作品にも当てはまる。
  なぜ太宰は女性の語りを採用したのだろう。また、ここに見られるような、読書にいそしむ「文学少女」の類型は、いつ頃から、どのように形成されたのだろうか。

  ……などと疑問に思って「文学少女」で検索すると、木々高太郎の同名の小説を知った。作者の木々高太郎は、医学博士でもあった推理小説作家。
木々高太郎 - Wikipedia
  この「文学少女」という小説は、『新青年昭和11年10月号に発表された。『新青年傑作選 第三巻』(立風書房)で読んだのだが、心打たれる短編である。中島河太郎の解題によれば、江戸川乱歩はこの小説を読んで非常に敬服し、「『文学少女』を読む」という感想を発表したそうだ。
  推理小説なので、あらすじを紹介できないのが残念だが、主人公の「文学少女」の誇り高い言葉を最後に引こう。

文学と言うものは、何と言う、人を苦しめ、引きちぎり、それでも深く生命の中へと入って消すことが出来ないものなのでしょう。でも、私はもう七たびも生れて来て、文学の懊みを味わいたいのです。私は、骨の髄まで、文学少女なのです。