吉岡友治『東大入試に学ぶロジカルライティング』

東大入試に学ぶロジカルライティング (ちくま新書)

東大入試に学ぶロジカルライティング (ちくま新書)

  現代文、特に記述問題対策で参考にならないかと思い読む。タイトル通り、東大および東大法科大学院の問題を解きながら、筆者が考える「論理的に読む/書く」ための段取りを説明しているが、引用された問題文も、筆者自身の意見も、興味深いものが多かった。以下、本書の感想というよりも、本書から触発された考えを書きとめてみた。

2008年東大入試問題より。

  本来「悲しい」ということは、どういう存在のあり方であり、人間的行動であるのだろうか。その人にとってなくてはならない存在が突然失われてしまったとする。そんなことはありうるはずがない。その現実全体を取りすてたい、ないものにしたい。「消えてなくなれ」という身動きではあるまいか、と考えてみる。だが消えぬ。それに気づいた一層の苦しみがさらに激しい身動きを生む。だから「悲しみ」は「怒り」ときわめて身振りも意識も似ているのだろう。(中略)
  それがくり返されるうちに、現実は動かない、と少しずつ〈からだ〉が受け入れていく。そのプロセスが「悲しみ」と「怒り」の分岐点なのではあるまいか。だから、受身になり現実を否定する闘いを少しずつ捨て始める時に、もっとも激しく「悲しみ」は意識されてくる。
  とすれば、本来たとえば悲劇の頂点で役者のやるべきことは、現実に対する全身での闘いであって、ほとんど「怒り」と等しい。(竹内敏晴『思想する「からだ」』)

  「悲しみ」は、大切なものを奪われたという「怒り」と同じ根を持つ感情であり、大切なものを失った現実を認めまいとする、現実との苦痛を交えた激しい「闘い」を、身を以て表現するものである。
  例えば、大切な人間を失った人は、おらび、叫び、腕を振りまわし、体を大地に叩きつけ、文字通り慟哭する。そこには、大切な存在がいなくなった悲しみだけでなく、「なぜ私にとって大切なこの存在が、私から奪われたのか」という、世界の理不尽さに対する憤怒がともなうはずだ。
  しかし、いかに声をあげても、喪失という現実は動かない。そして私達の生きた身体は、悲しみのさなかにも、空腹・寒さ・排泄などの欲求を訴えてくる。嘆いた後の痛みや疲れが残る体を持ち上げて、また少しずつ日々の生活に戻っていかなければならない。喪失の痛みを内側に抱えながら、それでも生きていかなければならないという受容の態度、それが「怒り」から「悲しみ」への移行、いいかえれば〈喪の作業〉ということだろう。むろん、その作業は一度で終わらず、「怒り」と「悲しみ」の間を何往復もすることも多いだろう。
  そしてまた、癒えることのない喪失の悲しみ=怒りの持続こそが、時として人を支えるものになるとも思う。

思想する「からだ」

思想する「からだ」

2004年東大入試問題より。

写真家は、世界が自己を超えていること、そこには不気味なものもあることをもっとも明確に見出した最初の人間であるかもしれない。世界とは、人間そのものではなく、人間の意識によって構成されるものでもない。世界は存在し、かつ人間も存在している。世界とは反人間的な、あるいは超人間な構造と人間という生まの具体性とが織りあげる全体化のなかにある。(多木浩二『写真論集成』)

  普通、表現とは内面にある何ものかを外界に投影し、形に示すことだと考えている。まず確固たる自己があり、表現はその自己の反映に過ぎない、と。しかし、写真はそのような表現という考えを退ける。まず外界があり、写し出された世界は、私の意志と無関係に存在する。つまり写真を撮る人間は、それによって脱中心化されるのである。

写真論集成 (岩波現代文庫)

写真論集成 (岩波現代文庫)

2009年東大入試問題より。

  個人の自己が、その内面からコントロールされてつくられるという考え方は、自分の私生活の領域や身体のケア、感情の発露、あるいは自分の社会的・文化的イメージにふさわしくないと思われる表現を、他人の目から隠しておきたいと思う従来のプライバシー意識と深くかかわっている。このような考え方のもとでは、個人のアイデンティティも信用度も本人自身の問題であり、鍵はすべてその内面にあるとされるからである。
  これは個人の自己の統一性というイデオロギーに符合する。自己は個人の内面によって統括され、個人はそれを一元的に管理することになる。このような主体形成では、個人は自分自身の行為や表現の矛盾、あるいは過去と現在との矛盾に対し、罪悪感を抱かされることになる。というのも自分自身のイメージやアイデンティティを守ることは、ひたすら個人自らの責任であり、個人が意識的におこなっていることだからだ。このとき個人の私生活での行動と公にしている自己表現との食い違いや矛盾は、他人に見せてはならないものとなり、もしそれが暴露されれば個人のイメージは傷つき、そのアイデンティティや社会的信用もダメージを受ける。

  しかし、もし個人の内面の役割が縮小し始めるならば、プライバシーのあり方も変わってくるだろう。情報化が進むと、個人を知るのに、必ずしもその人の内面を見る必要はない、という考えも生まれてくる。(中略)個人の身体の周りや皮膚の内側とその私生活のなかにあったプライバシーは、いまでは個人情報へと変換され、個人を分析するデータとなり、情報システムのなかで用いられる。(中略)「今日、プライヴァシーと関係があるのは、「人格」や「個人」や「自己」、あるいは閉じた空間とか、一人にしてもらうこととかではなく、情報化された人格や、ヴァーチャルな領域」なのである。そして、情報化された人格とは、ここでいうデータ・ダブルのことである。(阪本俊生『ポスト・プライバシー』)

  プライバシーとは、「個人の内面を中心にして、同心円状に広がる」イメージで思い描かれる。私と取り囲む部屋や家といった空間、家族や友人のような人間関係など。筆者によれば、その前提となるのは「自己は個人の内面によって統括され、個人はそれを一元的に管理する」という「イデオロギー」だという。自律的な近代的主体を疑うのは、ポストモダニズムの思想でよく見られる議論である。
  しかし筆者の重点はそこでなく、上記のような「イデオロギー」が失効している現在、プライバシーの概念も変化したことの指摘にある。社会の情報化にともない、プライバシーの領域も、内側ではなく外側に求められるようになった。メール、検索や買い物の履歴、銀行口座など、私に関する膨大な情報が、ネット上には顕在している。
  一番分かりやすいのは、映画『サマーウォーズ』に出てきた仮想空間OZだろう。近未来の話だが、あらゆるアカウントが統一され、アバター化されている。したがって、AIにアカウントを奪われた人々は、様々なサービスが受けられなくなり、パニックに陥る。文中の「データ・ダブル」とは、このような形で私の外側に浮遊する、新たな形のプライバシーということだろう。

ポスト・プライバシー (青弓社ライブラリー)

ポスト・プライバシー (青弓社ライブラリー)

  本書での筆者の主張を、私なりに言い直すと「論理は現実世界を正しく認識し問題解決に導くためのツールである」ということだと思う。随所で「思い込み」=「ステレオタイプ」の危険性を指摘しているのは、それが現実を見誤らせるからだし、自分が拠って立つものの見方を自覚することが大事だという。
  なるほどと思ったのは、なぜ物事を抽象化するのが必要なのかを説明したところ(第5章の5)。いわく「具体的状況は、意外にシンプルではないので、説明しにくい」から。特に現代文の評論では、抽象的な物言いを見ただけで、とっつきにくいと感じる人間も多い。だが、抽象化は必要な手立てでもあるのだ。
  また、理論については、常に現実妥当性を検証することが必要だと述べる。ここでも納得したのは、何かを理解した気になったら、それが当てはまる具体例を出してみるということ。

  適切な例を出せるということは、自分が理解したことを「使える」状態にすることにもつながる。原理を理解するだけではなく、それを具体的なイメージに変換して、現実に適用するためのパワーにする。(p.132)

  このように、理論はステロタイプに陥っていないかを、現実に適応して確かめながら使っていかなければならない。だからオリジナルな理論を生み出す者だけが優れているのではなく、「優秀なフォロワー」(p.158)も、理論の現実適合性を実地に検証し、不具合があれば修正するという重要な役割を持っているのだ。
  本書でもっとも感銘を受けたのは、論理的文章の価値について述べた以下の一節である。

  議論の価値は、自分の主張が勝ったか負けたか、にあるだけではない。内容を明確化して、他の人が参入して互いに検討しやすいオープン・プラットフォームを作るのも大事な仕事である。学問の営為などは、ほとんどその繰り返しにすぎない。誰かの主張を他の誰かが批判し、その批判を更に他の誰かが批判する。この繰り返しの中で、リナックスのプログラムのように、思考がより洗練され鍛え上げられていく。批判された者も、批判され乗り越えられる基礎を作ったということで、全体に貢献したと評価されるのである。(中略)
  逆に、判断基準を曖昧にして、どんな批判をも言い抜けて、自分の主張を守ろうとするのは、この共同作業を信じていないことだ。誰からも批判されないなら、誰からも負けないが、誰にも貢献できず孤立するだけだ。論理的文章の価値は、いわば「全力を尽くして戦い、時には潔く負ける」ことを許容するフェアネスにある。(p.196)