穂村弘『ラインマーカーズ The Best of Homura Hiroshi』

 読了日2023/01/15。

 冒頭の第一首「体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ」は、中学国語教科書にも採られている。三十一文字の僅かな字数で、場面と人物関係を鮮やかに喚起する手際は、短編小説の佳品のようだ。一首毎に背後の物語を感じさせ、また解説で瀬戸夏子氏が述べるように、本書全体の配列も恋愛→別れ→新たな出会い→死というストーリーを構成している。まるで歌から、それを詠んだ状況を説明した詞書が発展して歌物語となった伊勢物語のように。作中の「ほむ」と現実の作者は、業平と昔男が異なるように、同一でなく歌の主人公を演じている。

 「桟橋で愛し合ってもかまわないがんこな汚れにザブがあるから」「天使にはできないことをした後で音を重ねて引くプルリング」という強烈なエロスは、「「海にでも沈めなさいよそんなもの魚がお家にすればいいのよ」」で終わる。手紙魔まみは「おしっこを飲むとかそういうのじゃないのまみが貴方を好きな気持は」という爛漫さで「ほむ」を救う。「「血液に型があるの?」と焼きたてのししゃもみたいな事故車の前で」かつて第三者として見た惨劇の現場に、次は主人公となる。「きらきらと海のひかりを夢見つつ高速道路に散らばった脳」。

 穂村弘は吉田悠軌『一行怪談』の解説も書いていたが、確かにショート・ショート的な怖さは通じるかも知れない。「恐ろしいのは鉄棒をいつまでもいつまでも回り続ける子供」「血まみれの歯ブラシを手に近づけばぴたりととまる夜の噴水」。

円城塔『これはペンです』

 読了日2014/08/11。

 何かが書かれるためには、書く誰か(主体A)がいなければならない。逆に、書かれたものからは、書いた誰かの像(主体B)が遡及的に浮かび上がるはずである。では書いた主体Aと、書かれたものから読み取れる主体Bは合致するのか。合致するという立場なのが、近代の「作者」という概念である。だが現代文学理論は、「作者」への疑義から出発する。ネットワークの彼方に隠れて「変転」を続ける叔父は、書くことを通じて自己証明を試みながら、書かれたものから読み取られる自分のイメージには合致するまいと逃亡する、羞恥の人ではないだろうか。

柴田錬三郎『柴錬立川文庫二 真田幸村 真田十勇士』

 読了日2020/08/09。

 前作『猿飛佐助』のモチーフだった“出生の秘密”は、ついに敵方・家康にも及び、秀忠は影武者の子だと明かされる。

 もっとも「柳生新三郎」に家康の房事を佐助が覗くシーンがあるし、幸村が見抜いたようにこの話自体謀略の可能性もある。ただし、もしこれが作中の事実なら、豊臣秀頼も塚原彦四郎の子という話だったので、豊臣・徳川の後継者は、共に父の血を引いていないことになる。だとすれば、彼らが天下を握るために膨大な血を流した大阪の陣は何だったのか、と虚無的にさえ感じる結論だ。

 この大義の明らかでない戦で、ただ一人、戦人として己を全うせんとするのが真田幸村である。彼は

「日本だけを、墳墓の地と思いなされているのが、そもそも、大まちがいと存ずる。……御一同には、東に亜米利加大陸あり、西に欧羅巴大陸あり、北におろしや、南にわが日本に数倍する島国が無数にあることをご存知であろうか。されば、日本に住むことが窮屈になれば、東西南北、何処の地であれ、望みのままに、海洋を渡るに、いささかの不都合もあるまいと存ずる」

と大局的な戦略眼を持って進言するが聞き入れられず、敗北を悟る。だがそれでも、「自縄自縛と申そうか。この真田左衛門佐は、おのれを嗤い乍ら、滅びるであろう」と、最後まで大坂方で戦おうとする。

 家来の霧隠才蔵は、幸村に逃亡を進めるものの、否定され次のような言葉を残す。この台詞がいい。

「ええい、くそ! 殿、それがしは、今夜より、当城から姿を消し申す。太閤金を、血眼で、探索つかまつる。幾年か先、自力をもって掘り当て、生きのびられた殿の面前に積んでお目にかけ申す(中略)されば、その日まで――ご免!」

 

柴田錬三郎『柴錬立川文庫一 猿飛佐助 真田十勇士』

 読了日2020/08/07。

 単行本は1962年文芸春秋新社から(その前に『オール読物』に掲載?)。司馬遼太郎「風神の門」の連載(『東京タイムズ』1961~62)もあり、同時期に二人の時代小説家が「猿飛佐助」をリライトしていた。どちらも十勇士をろくろく書かないのは勿体ないが、手垢の付いた題材として敢えて外したのだろう。

 本作で前面に出てくるのは正負両様の“出生の秘密”。親として、我が子が別人の血を引いているのではと、疑心暗鬼に陥る者。逆に、子として思いがけぬ出自を知り、暗黒面に落ちる者などが多々いる中、主人公・佐助は血の束縛に囚われず飄々と自由に生きる。彼の幼時を知る百地三太夫の、「嬰児であったおぬしを肩へのせた白雲斎に、わしは、江州で出会うている。瘤をせおうたおぬしを眺めて、わしが、育つまい、と云うと、白雲斎め、ひどう慍(おこ)り居った。……よう育った」という台詞は熱い。

 余談だが、「柴錬立川文庫」シリーズは複数の出版社から出ており、同じ題名でも収録作が異なったりするので、どのように揃えたらよいか頭を抱える。

五味康祐『剣法奥儀 剣豪小説傑作選』

 読了日2019/03/13。
 解説を書いた荒山徹の「剣豪小説の醍醐味は、同等の力量を有する二人が、なぜ一は勝者となり一は敗者となったのか――そのことを、読者をして如何に得心せしめ得るかにある」という言葉に釣り込まれて読んだ。

 「鷹之羽」「雪柳」「無拍子」「青眼崩し」「浦波」「畳返し」「八重垣」など、いわくありげな名のみ残り実態は明らかでない秘剣について、それを体得した武芸者達の一瞬の勝負に至るまでを描いた短編集。

 奥儀を会得したい、勝ちたいという情念に突き動かされて、人物達は己の全てを賭けた勝負に出る。ハッピーエンドは「浦波」(部分的に「鷹之羽」)だけで、他は一方の敗北=死を省筆した淡々とした筆致で描いて終わる。

 どれも出典は柳生家の伝書「旅不知」からという、架空の書物からの引用という体裁を取っているのだが(柴錬立川文庫のようなもの)、「将軍家師範となった柳生流が、その兵法の万全を期するため、或いは何か他に目的があって、他流の奥儀を究めようとして、書かれたもの」という設定が伝奇的である。

泡坂妻夫『写楽百面相』

 読了日2019/03/22。

 寛政の改革による贅沢禁止令で、芝居も文芸も浮世絵も弾圧を受け、江戸文化が委縮していた時代。

 『誹風柳多留』の版元の若旦那で、手妻使いでもある色男の二三は、失踪した想い人の遊女・卯兵衛の行方を求めて、彼女を囲っていた男の正体を探る。手掛かりは彼女が持っていた、一目見たら忘れられぬ異様な役者絵。

 やがて卯兵衛は死体で発見され、二三は蔦屋の手代・十返舎一九の導きもあり、江戸出版界のドン・蔦屋重三郎を中心にした起死回生のプロジェクト「写楽」が進行中であるのを知る。同時に「中山物語」なる極秘の小説が出回っているのにも遭遇する。それは帝の妻・月子が役者の菊五郎と不倫の恋に走った挙句、帝からの刺客に暗殺されるという大スキャンダルを描いたものだった。

 冒頭から濃厚な江戸情緒漂う文体で、作者の知識に圧倒されるが、物語の展開はハードボイルド(謎の女と秘宝の探究)である。文化人達のネットワークと物語の筋が、閉塞した時代へのプロテストというテーマに収斂していくのが見事である。

写楽写楽であり、すでに斎藤十郎兵衛でもなく北斎でもなく一九でもなく蔦重でもない。江戸町人を代表する心である。写楽が百枚の雲母刷大首絵を世に出したとき、江戸町人の心意気が、理不尽な公儀に対して勝利を収めることになるのだ。

 卯兵衛の死に関する悲劇を知った登場人物の一人、俵蔵(後の鶴屋南北)がつぶやく台詞もいい。

「芝居だと、これで終りにはならないんだがな」と、俵蔵が言った。「卯兵衛の魂魄はこの世にとどまり、その怨霊が自分を苦しめた男どもを次次と取り殺さなきゃ、どうしたって幕が降りねえ」

 こうして『東海道四谷怪談』は、ある女への鎮魂のために書かれたという伝奇的展開が来る(そういえば山田風太郎八犬伝』にも南北は登場したが、本作に馬琴は出ただろうか)。

黒史郎『ムー民俗奇譚 妖怪補遺々々』

 読了日2019/04/24。

 本書は、作家で竹書房の怪談文庫の常連でもある筆者が、様々な民俗誌や地方の民話集から、興味のアンテナに引っかかった話を丹念に拾い集めた怪談集である。

 出所の多くが民話や民間伝承であり、狸や狐も登場するが、筆者の収集した物語は、いずれもどこか禍々しい(筆者自身の挿絵も相俟って)。夜道で出会うもの・凶兆となるもの・会うと不幸になるもの・訪うものなど、民俗的というよりは、現代的な怪談(『新耳袋』や『不安の種』のような都市伝説的・不条理的な)と似通ったテイストである。これらはある種の短さ・断片性と切り離せない。長編では、物語になってフィクション性がましてしまうからだろうか。結末以降をスッと切り落としたような短さが好まれているように思われる。日本文学史には、まだまだ多くの怪談奇談が眠っているのだろう。