読了日2013/03/20。
知の巨人・熊楠は突出したキャラクター性もありミステリにはうってつけの人物だ。他には古山寛原作・ほんまりうの漫画『漱石事件簿』が同じ英国留学時代を扱っていた。本書では亡命者や犯罪組織の跋扈するロンドンと、神話伝説の生きるケルト地方とを股にかけた彼の活躍が描かれるが、そこから当時の大英帝国の姿が見えてくるのも面白い。
読了日2019/11/21。
自身中国戦線へも従軍した筆者は、「日本軍の戦没者の過半数が戦闘行動による死者、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であった」という衝撃的な事実から、なぜそのような事態が生じたのかを、参謀による作戦至上主義と兵站・情報の軽視、偏狭な精神主義、人権の無視など日本軍の特質に求める。一方で特権層の専横を許し、他方で滅私奉公を強いる、悪しき日本型組織の典型としての軍隊像が浮かび上がる。それは行き詰まりを見せている今の日本社会にも通じるものだろう。
個人的には、軽視されていた軍医の地位向上に尽くしたのが、石井式濾水機を発明し、後に関東軍防疫給水部(七三一部隊)部長となった石井四郎という指摘(p.228-)にはぞっとした。
筆者が兵士の生き死にを左右した食物や衛生に着目した歴史眼から、机上の作戦に耽っていた参謀を批判するのは、「参謀の作戦計画」を「桶狭間の奇襲とかタンネンベルクの殲滅戦とかいうお伽噺で頭が一杯になっていた」と一蹴し、「実際の戦闘は、作戦とか忍者とかは縁のない体質を持った人間によって行われる」と喝破した大岡昇平(『レイテ戦記』)に通じるものがある。
読了日2015/08/03。
かつて受験指導のために読んだ。今となってはセンター試験自体がなくなったが、共通テストへの移行に伴って起きた様々なゴタゴタ(記述式の拙速な採用と廃止)は、それに対する文学研究者の反応(紅野謙介氏らの批判)も含めて、歴史的文献として記憶しておくべきだと思う。
本書は、旧センター試験に求められる能力として、①要約②換言③パターン化の三つが必要と指摘する。①②は多くの受験参考書や予備校でも指摘されており、本書の眼目は③にある。筆者は、国語は道徳であるという観点から、評論では「進歩的知識人」、小説では「小市民」を装い、その価値観に沿って本文を読み解くのが必要とする。目指すべき主体の像を提示する、イデオロギー装置としての国語の役割である。
ただし、本書刊行の前後から、既に「進歩的知識人」の方は、モデルとしての説得力を失いつつあった。石原氏自身、本書か別の著作で、国語教科書の内容が社会学に偏重したものとなっていることを指摘していた。目指すべき姿は、もはや思想や芸術を理解し、“人間はいかに生きるべきか”といった高尚な問いを抱く、教養人型の指導者ではなくなった。社会を工学的・操作的に捉え、システム設計できる技術者型の人間が求められたのだ。さらに、センター試験の末期には、情報技術の発達により、知識の有無が意味を持たなくなった、ネット社会の平準化に関する文章が出題された。
今、共通テストは文章だけでなく、図やグラフも含む複数の資料と関連付けて読み解く能力を求めている。PISA調査の結果は、何度も喧伝された。各時代の国語教育が求めた人間像が、社会からの要請を反映していたように、ここでも産業や経済界の意向が盛り込まれているのだろう。
その意味で、入試問題を透明なものとしてでなく、イデオロギーの表れと見る本書の視点は、まだまだ有効である。
読了日2023/08/02。
以前読んだ石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』に、ナチの失業対策やアウトバーンの経済的効果、さらに選挙で圧倒的支持を受けたという主張が、歴史学の成果を踏まえてしっかり批判されていた(自分も以前はそのような俗論を鵜呑みにしていた)。本書はQ&A方式でそれらの疑問に答えつつ、さらに個々のナチの政策を、民族共同体の創出という全体像の中に位置づけることで、より理解を容易にしている。政策には創意も実効性もなく、軍拡により国内外の財産を収奪し、プロパガンダで不満の目をそらした。暴力と目くらましがその政策の柱だった。
歴史学的な実態の解明はもちろんだが、同時に「なぜ私達はナチを過大評価したがるのか?」も併せて考えて行きたい。サブカルチャーへの浸透という点では、佐藤卓己編『ヒトラーの呪縛 日本ナチカル研究序説』がある(未読)。民族協同体についてはモッセ『フェルキッシュ革命 ドイツ民族主義から反ユダヤ主義へ』も参照したい。
読了日2020/07/17。
穂村弘の解説が秀逸。「私やあなたや樹や手紙や風や自転車やまくらや海の魂が等価だという感覚。それは笹井の歌に特異な存在感を与えている。何故なら、近代以降の短歌は基本的に一人称の詩型であり、ただ一人の〈私〉を起点として世界を見ることを最大の特徴してきたからだ」。短歌史も踏まえて作者の転生やアニミズム的感覚といったテーマを意味づけている。
「祝祭のしずかなおわり ひとはみな脆いうつわであるということ」
「「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい」
「食パンの耳をまんべんなくかじる 祈りとはそういうものだろう」
「わたがしであったことなど知る由もなく海岸に流れ着く棒」
「「いま辞書とふかい関係にあるからしばらくそっとしておいて。母」」
「吊り革に救えなかった人の手が五本の指で巻き付いている」
「廃品になってはじめて本当の空を映せるのだね、テレビは」
「眠りから覚めても此処がうつつだといふのは少し待て鷺がいる」
「こころからひとを愛してしまった、と触角をふるわせるおとうと」
「気のふれたひとの笑顔がこの世界最後の島であるということ」