フロイト「喪とメランコリー」

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)

  フロイトが1917年に書いた論文。原題は"Trauer und Melancholie"で、英訳では "Mourning and melancholia"とされている。mourningとは「悲しみ、悲嘆」または「哀悼」「喪中」の意味。訳者解説によれば、「メランコリー」は鬱病を指す。大切なものを失った時に誰もが体験する「喪」の仕事と、鬱病を比較して両者の共通点と相違点を考察しながら、精神分析の観点から見た鬱病の本質を論じたものである。
  まず「喪の営みが必要となるのは、愛する人を失った場合とか、愛する人に匹敵する抽象的な概念、すなわち祖国、自由、理想などを失った場合」とされる。この「喪」の仕事では、「苦痛に満ちた気分、外界にたいする感心の喪失」「新しい愛の対象をみつける能力の喪失」「死者の思い出とかかわりのないあらゆる行動の回避」など、簡単にいえば「外界が貧困になり、空虚なものになる」という体験を味わう。しかしこのような外界の貧困化・空虚化は、決して異常なことではない。「わたしたちはしばらくすれば喪の仕事は終わると信じているのであり、喪の仕事がきちんと行われ〈ない〉ことのほうが、理に適わないこと、有害なことだと考えているほどなのである」。
  では「喪」はどのようにして終わるのか。

愛する人を失った者は、現実を吟味することで、愛する人がもはや存在しないことを確認する。そこでその者は、失われた対象との結びつきから、すべてのリビドーを解き放つべきであると認識するのである。しかしこの要求に抵抗が起こるのはよく理解できることだ。そもそも人間は、自分のリビドーのポジションを変えたがらないものだ。新たな対象から誘われたとしても、抵抗しようとすることは、よく観察されることである。
  (中略)
  正常な状態とは、現実を尊重する態度を維持することである。しかし喪の仕事についている人には、この課題をすぐに実現できるわけではない。長い時間をかけて、備給エネルギーを多量に消費しながら、一歩ずつ実現していくのであり、そのあいだは失われた対象が心のうちに存在しつづける。リビドーが結びつけられていた対象を追想し、追憶し続ける作業のうちで、こうした感情が停止し、変形される。やがて備給されていたリビドーがあふれだし、解放されていくのである。

  周知のように、フロイトは人間の精神現象をリビドーの動きによって説明しようとした。リビドーは心の中のエネルギーであり、フロイトはリビドーを「量的」なものと考えていた(訳注)。この概念が秀逸なのは、心の動きを説明するのに、「量的」つまり水のような流体で特定の量を持つ何か、を想定した点である。エネルギー保存則のように、ある感情がせきとめられると、そのエネルギーは別の感情に流れていく。「リビドーはその全体量が特定の対象に振り向けられるのではなく、配分されるものである」(訳注)。
  リビドーが特定の対象に振り向けられることを「備給」という。私達にとって愛する人・祖国や故郷・崇高な理想などは、リビドーが備給される対象である。それらを失うことは、リビドー、つまりこれまで心のエネルギーを振り向けていた行き先がなくなることを意味する。従って容易には受け容れがたい。だから、私達はもう存在しない対象に向けて、引き続きエネルギーを注ごうとする。時には「願望と現実が入り混じる」「幻覚」さえ作り上げて。
  だが、人間の「自我」にはもともと「現実吟味」という機能が備わっている。「対象がもはや存在しない」という現実を理解した「自我」は、存在しない対象にエネルギーを注ぎ続ける不合理を認識し、徐々にそれを変えようとする。「対象の喪失と運命をともにする」のではなく、「生にとどまる」方へ欲望を振り向かせようとするのだ。もちろん、「このリビドーの解放のプロセスは長い時間がかかり、一歩ずつ進められる過程である」。

  これらが正常な「喪」の営みだとしたら、鬱病はどのような性質を持つのか。
  まず、大きな違いは「喪」が喪失した対象を強く意識しているの対して、鬱病の場合、何を喪失したのかが患者自身にも明確に意識されていない点である。

対象が実際に死んだのではなく、愛の対象として失われた場合もある(たとえば見捨てられた花嫁の場合)。またこのような喪失が発生したのはたしかだと思えるのに、何が失われたのかが明確には認識できない場合もある。そしてその場合にはどうやら患者本人にも、自分が何を喪失したのかが分かっていないとみられるのである。
  さらに患者本人が、鬱病のきっかけとなった喪失について自覚している場合にも、何を喪失したのかが認識されないこともある。患者はだれを喪ったかは分かっているのだが、自分が何を喪失したのかを理解していないことがあるからである。このように鬱病は、意識されない対象の喪失にかかわるものである。

  このような鬱病患者の特徴は、極端な自己卑下・自己否定である。

鬱病の患者はみずからの自我を、価値のないもの、無力で、道徳的に咎められるべきものと表現するのである。患者はみずからを責め、みずからを罵倒し、追放され、処罰されることを期待さえしているのである。(中略)外からみても、鬱病患者のこの自己卑下の強さは正当なものではないことがはっきりとしていることも多い。しっかり者で、有能で、義務を忠実に果たしていた女性が鬱病になると、実際に役立たずの女性よりも、みずからを低く評価するものである。

  ただし、この自己否定の感情には特徴がある。

正常な人でも、後悔や自責の念に駆られると他人に激しい恥辱の感情を抱くものだが、鬱病患者の場合には、こうした恥の感情が欠けているか、ほとんど気づかれないほどである。鬱病患者は反対に、自分の真の姿を露呈することに満足をみいだすかのように、切迫したありさまで自己の内実を告げようとするのである。

  なぜ患者は羞恥心なく自己を責められるのだろうか。これについてフロイトは「鬱病の患者では自我が分裂しており、自我の一部が他の部分と対立させられている。自我のある部分が別の部分を対象とみなして、鋭く批判しているのである」と説明する。つまり、否定される自己を自分の一部だとみなしていないからこそ、激しい自己嫌悪を他者に対して訴えることもできるというのだ。
  では、患者が否定する自己の一部とは何なのか。

鬱病患者が語る自己への多様な非難の言葉に忍耐強く耳を傾けていると、こうした言葉のうちでもとくに強い非難の言葉が、患者の人格にあてはまることはごく稀であることに気づく。わずかな修正を加えてみればその多くは、患者が愛する人、かつて愛した人、または愛そうとして愛せなかった人に該当するものではないかという印象を払いのけることができなくなるのである。(中略)自己への非難の言葉は、もともとは愛する対象に向けられるべき言葉であり、これが方向を変えて自我に向けられたものだ

自分を非難しておけば、相手をごまかせるし、自分のほんとうの気持ちが明らかになることがない。

彼らの愁訴は告訴なのである。彼らが自分を卑下して語るすべての言葉は、基本的に他者を指して語られているのであるから、それを語ることを恥じることも、隠すこともないのである。

  こうして、鬱病患者の非難が、元来はリビドーの対象、愛する相手に向けられるべきものだったことが分かる。ただ、患者は何らかの理由で愛する相手への非難や憎悪を明るみに出したくないと感じている。この意識化されない感情が、反転して自己に向かうのだとフロイトは述べている。

患者は対象選択を行い、リビドーを特定の人物に固着させたのである。ところが愛する人から実際に侮辱されたり、失望を味わわされたりすると、それに影響されてこの愛する対象との関係が揺らいでしまう。ふつうであればリビドーをこの対象から引きあげて別の新しい対象に移すのであるが(中略)解放されたリビドーが別の対象に移されるのではなく、自我に引き戻されるのである。
  この自我に引き戻されたリビドーは自由に使われるのではなく、放棄した対象と自我を同一化するために使われる。対象の〈影〉が自我に乗り移って、これがある特別な審級によって対象そのもの、放棄された対象そのものと判断されるようになる。こうして対象の喪失が自我の喪失に姿を変え、愛していた対象と自我との葛藤が、自我への批判と、同一化によって変貌した自我とのあいだの分裂となるのである。

  患者が否定する自己とは、否定したかった相手に同一化した自己である。言ってみれば、自分の中に相手の似姿を作り出し、そこに表に出せない負の感情を注いでいるわけだ。そうすれば、相手を否定したいという気持ちを、他者にも自分にも分からせずにすむからである。「愛する人とのあいだに葛藤が発生しているにもかかわらず、愛情を放棄する必要はなくなる」。つまり“私は私を憎んでいるのであって、相手への愛情は今も続いている”という錯覚を作り上げようとするのである。さらには「愛の対象を喪失した責任が自分にあり、そのことを自分が望んだのであるという自責の形」も取る。“こんなだめな自分だから、相手にふさわしくないので、自分から関係を断ち切るのだ”という理屈である。
  つまり、一方では相手への「憎悪」、他方ではそれを意識化するまいという努力(なぜならかつては愛情の対象だったから)が拮抗した結果が、鬱病なのである。

  鬱病に陥るきっかけとなるのは、死による喪失という分かりやすい出来事だけではない。侮辱されたり、無視されたり、失望を味わうなど、愛と憎しみという対立が忍び込んだり、すでに存在していたアンビヴァレンツが強められるようなあらゆる状況がきっかけとなりうるのである。(中略)愛する対象そのものは放棄されたのに、対象への愛だけは放棄できないと、その人はナルシシズム的な同一化へと逃げ込む。そして愛する相手の代わりに自我を備給の対象とするが、その対象に憎悪が働くようになる。そして自我を罵倒し、侮辱し、苦しめることで、サディズム的な満足が得られるのである。

鬱病でも強迫神経症でも患者は、自己処罰という迂回路を経由して、もともとの対象に復讐することに成功するのである。もともとの対象に直接に敵意を示さなくてもすむように、鬱病という疾患にかかるのであり、この病を通じて愛する人を苦しめるのである。

  では鬱病に終わりはあるのだろうか。それはこのアンビヴァレンツが解消した時だろうが、フロイトはこれについて明言していない。

鬱病のすべてのアンビヴァレンツの闘いは、対象を貶め、その価値を低くし、同時に打撃を加えることで、対象へのリビドーの固着を緩めるのである。この無意識におけるプロセスが終わる可能性はあるが、それはみずからの怒りを爆発させた後か、対象を無価値なものとして放棄した後になってからのことである。このどちらかの可能性が実現することで鬱病がいつも(あるいは多くの場合)終結するのか、そしてこの鬱病終結が、その後の症例の推移にどのように影響するのかは、まだ十分な知識が得られていない。その際に自我は、みずからをより善きもの、対象よりも優れたものとみなして満足を味わうのかもしれない。

  「みずからの怒りを爆発させ」るとは、抑えてきた「憎悪」を対象に向けて爆発させるということだろうし、「対象を無価値なものとして放棄」するとは、相手を自分を偽ってまで庇うに価しないと考えるに至る、つまり「愛する対象」ではないとはっきり思い切ることだろう。ただし、このアンビヴァレンツが解消されたら、必ず鬱病が終わるとはフロイトは確言できなかったようだ。